浅草

「街ぐらし」という雑誌が浅草を特集していたので買ってみる。浅草在住のいとうせいこう全面協力という形で、勘九郎こぶ平、なぎら、そして山本一力までもが駆り出されている。
 浅草大絶賛の内容が連続していて、ホントかよ?という感じになる。まあ雑誌のスタイルからして持ち上げるのが基本なんだろうけど、絶賛オンリーだとなんだか嘘くさい。

住んでいて思うけど、もっとフツーの街ですよ。下町幻想があまりにも先行している感がある。
確かに昔ながらの食い物屋が多かったり、基本的に寺町と色町だから歩くとさまざま風情が残っているし、散歩の楽しさは格別だ。
しかしホームレスが多かったり、治安もあまりいいとはいえない。人情とか言ってる割にはそういうところ放置されてるんだよね。人情を売りにしている店ならシャッターのところに「店の前で寝るな」とか書くなよなあ。

よく寂れてるとか言う人がいるけど、それはあんまり悪いことではないと思う。妙に流行って粗暴な若者とか夜まで騒いでる状態とかなったら嫌だし。ボロくなってもそのまんま、客が来なくなってもそのまんまが結果、風情とやらを作り出しているわけで、「ほっとく」といういいかげんな精神がこの街の真骨頂でもあるのだ。
しかしほっとくというのは結構しんどいことですよ。もう少しどうにかしろとかいろいろ言われると思うし。でもね、考えてみてくださいよ。ローマのコロッセウムだって、今でこそ世界遺産だけど、中途半端に古かった時代とかもあったわけで、そんな頃は、きったねえし、ぶっこわれかけてるんだから、壊しちゃえよと言われてたと思う。しかしそこをどういうわけか乗り切って、今がある。ほっといたことがよかったわけで。そこらへんは多分にイタリア人の適当さが関係してると思うんだけど、浅草も今の東京再開発ブームとかに流されないで、より一層ほっとかれたい道を進みたいものだ。

しかし「東京人」もそうだけど、今、全体的に、失われた東京というものに何か飢餓感みたいなものを抱いているのかもしれない。変わることをよしとしてきた東京がここに来て、果たしてそれでいいのかと立ち止まって考え始めたようにもみえる。まあでも今更遅いんだけどね。東京は今後も容赦なく変わり続けると思う。
しかしね、ノスタルジーとかっていうのはだいたいが無責任なもので、そんなにぶっこわされるのが嫌なら、それが健在なうちにもっと来いよと。壊されるときなってから騒ぐのがわからん。騒ぐだけなら猫でもできる。普段来てないくせに、騒ぐ権利なんて無いわい。



浅草のゆるくていいところは、やる気のない食い物屋がいまだにあるということだ。町田康が「東京人」で書いているが、昔はしかたねえから食堂でもやってるという店が多かった。街の食堂なんてそんなもんですよ。小津の「秋刀魚の味」に出てくる東野英治郎がやってるまずい中華屋みたいなのがフツーだった。それが今ではグルメガイドブックに載らねば店にあらずみたいな風潮になってしまって、どこの店も小綺麗でこだわりとやらを標榜する。客も店も真剣勝負みたいになっちまって、肩が凝ることこのうえない。
ラーメンごときに行列だの、たかがスパゲッティ(パスタなんて言ってやるものか!)食うのにいちいち予約が必要だと抜かす。いつからそんなに東京の飯はしちめんどくさくなったのだ。
だいたい犬養裕美子だとか小山薫堂だとかレストラン評論家を名乗る奴らはいったいなんなのだ。青山や麻布といった超狭い範囲の中を業界ぶってぐるぐる回遊してるだけで、東京の食をすべて知ったような顔をしてる。ああいうのが、糞まずくてぬるい食堂を危機に追いやっているのだ。味なんてどうでもいいからただぐだぐだしたいなんて気持ち、こいつらには死んでもわかるまい。それが証拠にあいつらが書くグルメ本には東京北東部の情報がほとんど無い。浅草や上野だって東京だぞ。港区だけが東京だと思ってやがる。
そういえば「Dancyu」とかで小山が京都で着物を着て悦に入っていたが、食の次は着物かよ。全く身体の芯まで「BRIO」な奴だな。ワインも着物も奴にとってはただのちゃらいアイテムでしかないのが腹立つ。やるならこれからずっとそれで行ってくれよ。つまみ食いされるものがひどく哀しくみえる。

さつまあげ
からし
すっぽんスープの卵とじ