舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日」覚書


ディスコ探偵水曜日〈上〉


待望の長編「ディスコ探偵水曜日」が刊行されました。
新潮に第1部が掲載されたのが2005年5月号なので、ざっと3年かかってます。
上下巻で原稿2000枚の大長編です。
上巻は連載分、下巻はまるっと書き下ろしとなっています。
しかしまさかこんな大長編になるとは予想だにしませんでした。
以下、書評での考えをまとめるための感想その他覚書です。




舞城王太郎は愛の小説家である。
今までの作品で一貫して語られてきたのは、愛である。
今回がその究極。
「好き嫌い」の感情を含めて、愛の本質について語り尽くしている。


よく「人はやっぱり外見より中身だよね」というが
そもそもその「中身」とは何なのか?
雰囲気?人格?魂?気持ち?
「中身」が重要ならば「外見」が変わっても
好きでいられるか?


子供の頃、自分の身体すなわちガワは交換可能だと思っていた。
ブロック塀とかに登り、このまま落ちて死ねばガワが壊れて中身が外れ、
新しいガワを持つ自分ができあがると本気で考えていた。
これは生まれ変わりの概念とはちょっと違っていた気がする。
もっと工学的なメソッドに近いものだった。
今回、これに近い設定が登場しているので、懐かしくも奇妙な気分。


人間の中身はひとつではない。
いろいろな「気持ち」が存在し、個々の人格を持って活動している。
中には厄介なものもいる。
それとの対決がひとつのテーマ。


人間の強い「気持ち」が世界を決めていく。
「気持ち」で時空も超えられるし、ねじ曲げられる。
しかし、世界を「編集」するのは難しい。


謎の相棒「水星C」は何者か?
主人公ディスコを、後ろから盛大に「まくり」、導く存在。
彼こそが人間を導く神(あるいは神からの伝令者)なのか。
旧約聖書の神のごとく、名前を呼ばれるのを嫌う。
常に暴力的で不可解。最終的に悪を飲み込み、主人公を救う。
人間に考えさせ、世界を作らせ、そして滅ぼさせる存在。
落語の「鉄拐」のよう。



マーキュリー(水星)にCが付いている一橋の校章


推理を誤った名探偵たちは、次々に死んでいく。
余計な文脈読みは死をもたらす。
推理によって、真実が逃げていく。
探偵を批評家に置き換えると、痛烈な文芸批評批判にも取れる。
(最終的には「すべてに意味がある」として、解決へのステップとなってはいるが)
宝探しだけに終始していても、「気持ち」は見えてこないというわけか。


最近の批評は、作品の魅力を伝えずに、
自分の知識の豊富さを誇るだけのような
宝探しゲーム的でうんざりする。


これは、最先端の文学理論を語るための材料としての作品ではない。
きちんとした感動をもたらす、読み物としての魅力を持った物語なのだ。
冷たい批評の言葉では、この作品の本質は語れない。
いっそのこと、批評ではなく
エモーショナルな感想文で書くしか突破口はないのかもしれない。
ぼんやり見る、ゆるく考えることが必要なのか。


複数世界、精神と身体の分離などのモチーフを扱う物語が
ここにきて偶然にも頻出している。
「キャラクターズ」「ファントム・クォンタム」東浩紀
宿屋めぐり町田康
「ダンシング・ヴァニティ」筒井康隆
あらゆる可能性を併記した世界観が求められているのかもしれない。


連載時と単行本で記載が違う部分がある。
登場人物の名前、年齢など。
単なる校正の結果とするより、これもひとつの可能性、
別世界と考えたくなる。


不能としての探偵ディスコ。
梢は子供、勺子とは肛門性交のみ、
分身である「黒い鳥の男」はペニスを持たない。


なぜディスコは、子供が好きなのか?


何かを好きになる理由とは?
「好き」「嫌い」に理由は無い。きっかけがあるだけだ。


ふっと現れる悪。
村上春樹的。
「嫌い」という強い気持ちが生み出す根拠レスな存在。
根拠レスだからこそ始末が悪い。


表紙絵は初音ミクの原画作者によるもの。
梢の様々な表情が現れている。
初音ミクという、無数の人格を創出できるキャラは
内容と照らし合わせると非常に示唆的。