津村節子「消えた時計」読む。
小説というより、自身の闘病記といった感じ。
動脈硬化が原因で眼がかすむ病気になった主人公は、眼科の名医といわれるところを自分のコネなどをフルに使い紹介してもらうが、満足な治癒が得られないと判断するや次々と新たな治療法を行う病院に転院していくという話。



一般の病人では、とてもこんなマネはできない。
著名人ならではの強引なコネとオバさんならではの自己中で強引な性急さが出てて、読み物としてはおもしろい。
まあでもこんなオバさんも相手にしなきゃいけない医者というのは大変な職業である。手術なんて万一失敗したら、とことん呪われそうだ。治して当然と思っているし。最後の主治医が逃げ出した気持ちもよくわかる。
しかし、文中で動脈硬化になるなんて不本意だとか言っているので、それほどの年齢ではないのかと思って、プロフィールを調べると、今年で76歳。動脈硬化してても普通でしょ。てっきり50歳くらいかと思いましたよ。自分ではまだまだ若いと思ってるところがすごいです。



あゆライブ@代々木。
ここでも曲の合間に「眼」が登場。
あゆのあのいささか大きすぎる眼がまばたきする映像が一瞬流れて、次の曲に行くという演出。あんまり見てて意味が無いように思えたのだが、なんかこだわりがあるのでしょう。



そういえば多和田葉子「旅をする裸の眼」(群像2月号)も眼がメタファーになってましたな。
この場合、眼という表現は日本語的に捉えるより、ドイツ語の文脈で捉えたほうがその意図がよくわかると某氏が言っていたが、私はドイツ語に無知なので、そこまではわからんかったよ。



三木卓も眼についてはおもしろいこと言ってます。曰く、
「ぼくはそれよりもこの地球上で、或る生物がその体細胞のどこかで、電磁波の或るゾーンを光として感知したという劇的な瞬間のほうに関心を抱いてしまう。そのとき細胞は、これは生きていく上で必要だと感じた。そんなことがどうしてありえたのだろう」(「眼」)



まあ生物には眼以外の別の感覚器官で行動している奴もごまんといるしなあ。
人間は生存戦略の上で、視覚を使うのが最適と考えたんでしょうな。
だから眼がぱっちりしてる奴が美人とされてるのかね。戦略的に強いからとかで。
あゆの眼はでかいしな。なんか年々でかくなってる気がするけど・・・。
しかし松島トモ子みたいに眼がでかすぎるとライオンに襲われるし、難しいところではある。



さつま揚げ
たこ刺し