欲望のTV

ある研究所に行き、ドラえもんのような話をする。
その中で、テーマはやはりTVの方向へ。
要は誰でも作れるTV番組キットをつくりたいわけだが、議論していると、目指す方向は人それぞれだなあと実感する。



しかし私としてはどうしても追求したい核の部分がある。
それは「人はなぜTVに映りたい・出たいのか」というところである。
自分の姿が映像情報として電波に乗るということがなぜこれまでにもてはやされるのか。それは映像になった自分の姿を多くの人に見てもらいたいという欲望に根ざしているのは言うまでもない。自分ちのビデオカメラで自分映しても、それだけではなんもおもしろくないしね。やっぱり他人に自分を見られたいわけですな。



昔のTVニュースを見ていると、街頭でインタビューされている人々の反応がおもしろい。はっきりいって、カメラに慣れていないのである。挙動不審なのである。まあ普通いきなり路上で「今の内閣について一言!」とか言われても常識ある人でも挙動不審になるのが当たり前である。多くの人が「マイクに」向かって訥々と答えているのが特徴的である。
しかし、今ではそこらのオバさんでも、生き生きとして自らの意見を、「カメラに」向かって喋るのが普通だ。
なぜこれだけ大衆は変わったのか。たぶん変わったわけではなく、今まであった欲望が表面に出てきたと考えたほうが自然だろう。誰かに自分を知ってもらいたいという欲望が。



webの世界はそういう自己顕示の欲望を実現させる手段として成長してきた。
たぶん今度はTVの世界でそれを始めなくてはいけない。
タレントが徐々に素人化してはいるが、まだまだ芸能人と一般人の溝は深い。
誰でもTVに出られるようにするということは、ある意味、芸能人を有名無実化することに繋がる。TVに出ている人=有名人ではなくなるのだ。
よく「消えた芸能人」「あの人は今」とかいわれるが、その基準はTVに出ているか出ていないかである。舞台や映画とかに出ていてもそれはそいつの存在価値にはカウントされない。誠におかしな話である。
ほんとのスターはやっぱりTV芸能人じゃダメでしょ。
ただ画面に映ってるだけでスターです、っていわれてもねえ。
たぶん、誰でもTV計画が進めば、今のスターの概念は変わるはずだ。
そこからきっと、本来のオーラを持ったスターが生まれてくると思うのだが。



松浦寿輝「あやめ 鰈 ひかがみ」読む。
やはり秋葉原(外神田)〜末広町上野広小路界隈は絵になるね。渋谷なんかよりよっぽど魔に充ち満ちている。



いか炙り焼き
うに
上善如水