中島らも氏、逝く。

 中島らも氏、逝く。中島氏といえば、かねてつ。
 かねてつの広告であった「啓蒙かまぼこ新聞」のてっちゃん親子は、わたしにとって今でも理想の親子像である。
 その昔、かまぼこの番組をつくることになった時、もちろんまっさきに飛んでいったのは、かねてつであった。無理な実験をいろいろお願いしてしまったが、どれもおもしろがって取り組んでくれた。そのおもろがる姿勢が中島氏の広告にも通じていたような気がする。

 
 通天閣界隈はどこか昭和の猥雑さを残している土地で、浅草と同様好きなのだが、その中でもジャンジャン横丁は中島氏の造語である「せんべろ」(千円でべろべろに酔えること)ができる愛すべき場所である。その風景は中島氏の近著「せんべろ探偵が行く」(文藝春秋)に詳しいが、この街をはじめとするいわゆる「せんべろ」街に、彼は独特の美学を見いだしていたと思う。
 浅草での晩年の永井荷風ではないが、中島氏にはもっと長生きしてもらって「せんべろ」老人としての姿をまっとうしてもらいたかった。合掌。



 「大塚康生の動かす喜び」見る。
 大塚氏は東映動画時代から宮崎駿氏、高畑勲氏を育てた名アニメーター。その奔放な性格と類い稀なる人間育成術は、映像を通して見ても魅力に溢れており、こういう人に教われば、才能のある人はどんどん伸びていくだろうなあと実感する。
 子供の頃に見た「長靴をはいた猫」や「ルパン三世」「侍ジャイアンツ」などの思い出深いキャラクターは皆、この人の筆さばきから生まれたと思うと、感慨ひとしおである。
 それにしてもおじいさんになっても、さらさらとコナンや五右衛門を描けるなんて、かっこよすぎる。まあそれが仕事だったんで当たり前なのだが、どの仕事でも職人的に技を持っている人は、いつまでもすばらしいものだ。
 ちなみにこのDVD映像は氏の功績を称える内容が中心なのだが、「ほぼ日」の糸井・鈴木対談では氏の隠れたエピソードの数々が披露されていて、豪快というかアバウトというか、いわゆる憎めないヒトだったということが窺えて、さらにおもしろい。なかなかこういうじいさんにはなれないものなのだ。



 「ユリイカ」8月号。
 芥川賞の向こうを張ってZ文学賞なるものを創設。受賞は福永信「コップとコッペパンとペン」。まあアンチ芥川賞ということで、あえてこういう種類の作品を持ってきたのだろう。まあそういう対決姿勢はわからないでもないが、その道具とされる作品、作家たちはたまったものではない。勝手にあれこれ言われて、ノミネートだの落選だのとされても、戸惑うばかりだ。
 それにしてもこういう偉そうなことを言う人々はきちんと上半期の掲載作品をすべて読んだりしているのだろうか。候補の分母が少ないなどと言っているほどだから、すべて読むことなど彼等にとってはたやすいと思われるが。というかそれが全体の中のトップを決める上での最低条件だと思う。
 しかし仮にも編集者おすすめのものだけをピックアップして読んでいるだけなら、こういう形で選考するのはおこがましい。選考談話でも編集部側から「青山真治川村毅の作品はどうか」と振られた際に、きちんとしたリアクションがないままスルーしていたが、読んでいればなにがしかの感想があってもよいはずだが。特に両作はいずれも力作で芥川賞候補になってもおかしくない出来映えである。
 まあいずれにしろ賞というのはすべからく偏見選考の結果にすぎないということを皮肉にもアンチ芥川賞という姿勢の中で明らかにしてしまっているわけだ。
 本書の中で文学賞についてのアンケートに松浦寿輝が答えているがそこにすべての賞の本質が語られている。
 「周知のように、必ずしも芥川賞にかぎらず、また日本と外国とを問わず、文学賞の審査員には度しがたい馬鹿が少なからず混ざっており、従ってくだらない作品が受賞したり優れた作品が落選したりということが日常的に起きているからです。
 文学賞は文学とは全く関係がありません。それは要するに、あれやこれや数多くある人生の社交的な娯楽の一つにすぎません。人生の社交的な娯楽に興味のなかったカフカはむろん文学賞などどうでもよかったわけですし、他方プルーストはゴングール賞が欲しくてたまらず結局「花咲く乙女たちの蔭に」でそれを受賞しています。しかしそんなことが彼等の傑作にとって、それを今日読むわたしたちにとって、いったいどんな意味を持つでしょう」


うなぎ たこ いぶりがっこ
久保田万寿