同時多発的模倣。

marudonguri2005-10-29

 最近、同時多発的に模倣問題が起きている。
 「すばる」に掲載された篠原一の「19℃のロリータ」、マンガ家の末次由紀の「スラムダンク」トレース問題に続いて、今度は詩人の小池昌代である。さすがに現代詩ということで世間的にはほとんど話題になっていないが、創作というものの最も本質的な部分に関わる話として受け止めている。


 事の発端は、「文學界」11月号に載った詩人の片岡直子による「インスピレーションの範囲 ー小池昌代さんの「創作」について」という評論である。
 これを読むと小池氏の作品に使われている表現の少なからぬ幾つかは、過去の様々な詩人の作品との類似性を認めることができる。これを引用と呼ぶべきか、あるいは片岡氏がやや皮肉的に使っているようにインスピレーションと呼ぶべきか、はたまたずばりパクリとみなすべきかは議論があるところだ。


 東京新聞の「大波小波」という妙に純文学指向の強いコラムでは、既に全く真逆の二つの意見が続けて掲載された。ひとつは明らかにこれは盗作に類するものだと断じて、小池氏に説明責任を求める意見、もうひとつは、同時代に生きている限り、似たようなモチーフに到達するのは創作者として自然なことで、今回のこれもその範囲であるとする寛容な意見であった。
 その後、産経新聞でも夕刊のコラムで、この話を取り上げているが、もうそれは車谷長吉立松和平の過去の事件にまで巻き込んで、現代作家の質の低下をややヒステリー気味に嘆いている。


 詩をマンガや小説とステージが違う創作と考える気はないのだが、どうも事が詩となると、微妙な空気が漂う。この一件を知って最初に思い出したのは、今年の萩原朔太郎賞における高橋源一郎の選評である。そこで高橋氏は詩の賞の選考会というものが、文学賞の選考会に比べて、いかに穏やかで紳士的でかつわかりやすい言葉で意見を交わす場であるかということを書いている。高橋氏にとって詩の選考は初めてのことであり、一種のカルチャーショックを受けたらしい。
 どうやら詩の業界というのは、かなりお互いを尊重しあう雰囲気を持っており、そして、優れた表現ほど「自分のため」に生み出されたものではなく、何か一種公共的な意味合いを呈しているようだ。
 高橋氏が実感したことと今回の問題を直接結びつけるのはやや短絡であるが、小池氏のような所作が生まれる背景には、こうした詩の業界独特の、穏やかでかつ滅私的な伝統が絡んでいるのではないかと感じる。

 
 まあそうは言っても、今回の片岡氏の懇切丁寧な、小池氏の作品とその表現の源泉と思える他作家の「オリジナル」詩の対応例の数々を見てしまうと、小池氏から何らかの説明を示してもらわないと落ち着かない。
 このままで終わらせてしまうと、今後、小池氏の作品を目にするたびに、多くの人が余計な想像をしてしまうことだろう。


 マンガや音楽のオリジナル性の問題は、ずっと以前から言われてきたことで、もう半ば宿命的なこととして受け止めている向きもある。幸いにも小説や詩に関しては、これまでそれほど議論になってこなかった。それは本歌取りとかパロディの伝統ということも関わるのかよくわからないが、おおむね鷹揚に解釈されてきたのかもしれない。
 人間の常として幼少期などは模倣を出発にして、新たな創作がなされるわけだが、やはり「私」としての個を表現していきたいなら、オリジナルを目指すべきだろう。
 しかし、その目的が一段上がって、普遍的な美、公共的な完成度を目指すと考えたらどうなるだろう。人によっては、今まで先人がつくった「美」のかたちに、さらなるアレンジを加えて、その美を磨き上げたいとも考えるかもしれない。そうしてつくったものはもはや自分のオリジナルとは言えないが、公共的な美として還元するなら、それは美というものへのある種の貢献と考えることもできる。
 きっと昔の本歌取りというものには、そういう精神も働いていたと思う。ちょっと分野が違うが、皆でバグを取りあい、機能を付加し、完成度を高めていくPCプログラムのオープンソース方式と考えればよいのだろうか。
 いずれにせよ、そうした崇高な指向があるならば、やはり引用元は明らかにするべきだし、そうしないとネットでの議論が盛んな今においては、新たな議論の標的とされてしまうのがオチである。