夢の中の台湾。

marudonguri2005-11-06

 奥本大三郎先生の「霧中の台湾」(新潮)を読んだせいか、ふと台湾に行きたくなって、行ってきた。東京から三時間と少し。週末のわずかな時間を使っても行けるので、ほとんど国内旅行の感覚だ。
 先生の台湾行は霧と雨の日々だったが、今の季節は台風も無く穏やかだ。先生に倣って、まず夜市に行く。
 異国の街並みなのに、なぜか見るものすべてが懐かしい。
 大阪の千日前のようだという形容が先生の作品には出てくるが、それ以上に混沌を極めている。機中で偶然読んできた林芙美子の「めし」が描く昔の大阪の姿ともだぶって見える。犬がトカゲなどと一緒に無造作に売られているのが哀しい。


 粥の名店がその古びた佇まいを捨て、青山あたりのデザイン・カフェ風の内装に変貌している。明らかに周囲の街並みから浮いていて、うそ寒い寂しさを感じるが、そんな感傷はそこで生きている者にしてみたら余計なお世話に違いない。
 日本統治時代の趣きを残す家屋で茶を楽しむ。
 茶の素晴らしさもさることながら、時間がゆっくりと流れるような空間がなによりのごちそうだ。


 松浦寿輝の「もののたはむれ」に次のような一節が出てくる。
 「町歩きというのもけっこう面倒なものだ。安っぽい合板を張り合わせたぴかぴかの集合住宅が建て込む中を歩いてもつまらないが、かと言って名所旧蹟の点在する趣き深い古都なんてものも、歩いているとだんだん肩が凝ってきてどうもいけない。散歩にいいのは老人が平穏な表情でゆっくり歩いていて、車の入ってこない商店街には旨い豆腐屋があるような古くも新しくもない当たり前の町であり、ややうらぶれたそういう界隈を街並み相応にうらぶれた気持ちで歩くのは精神の健康によい。」


 そういうわけで、うらぶれた気持ちで知らない町を歩く。
 しかし実際、全く知らないわけではないのだ。
 ごみごみとした通りの両脇にひしめく、台所にそのまま屋根を付けただけのような食い物屋たちは、私がある時期から繰り返し夢で見る光景なのだ。
 ある時はその店の客として麺をすすり、ある時は店の親父となってそろばんを弾いている。
 店の前でたわいもない玩具で遊ぶ子供の姿も強い既視感を持って迫ってくる。
 通りを歩いていると、どこかの店の奥から「やあ」と声を掛けられそうな気配を感じるほどだ。
 いつのまにか夢の中の店を探す自分がいる。しかしほんとうにその店を見つけたら、現実と夢が繋がってそのまま向こう側に吸い込まれそうだ。
 奥本先生の「霧中の台湾」を読んだことで、私の夢の中の台湾世界が一気に、心の表層に上ってきたのかもしれない。良質な小説はそんな思いがけない作用を示すものだ。


 夜市に戻って、またその混沌に身を沈める。ビンロウを一心に巻く少女の姿を見ながら、松浦寿輝の「半島」に出てきた迷宮のような街はこんな感じだろうかと妄想する。
 歩く毎になぜかべたつく靴の裏を気にしながら、既に明日の東京のことが心にひっかかっている。