島田雅彦怒る怒る怒る。

marudonguri2006-04-01

 アニキとして怒り、厳父として鉄槌を食らわしていた島田雅彦文芸時評が終わった。
 ほとんどの書評や時評が単なる新刊の提灯記事化している現在、希有な鋭さを持った批評だったので、終わるのはとても惜しい。


 最終回は今までの憤懣が爆発したかのように、近頃の、読者に媚びたマーケティング小説を批判している。俎上に載せられたのは、「Yahoo!JAPAN文学賞」「新潮エンタテインメント新人賞」「十二歳のための文学賞」「野生時代青春文学賞」だ。一般読者の人気投票と石田衣良によって選ばれたYahoo!の受賞作などは、破綻もなく読みやすく市場のニーズに適した、まさに「民主的な」作品で何もひっかかるものはなかったと痛烈に皮肉っている。


 さらに、野生時代の受賞作「りはめより100倍おそろしい」については、もっと手厳しい。
 「ネット、新聞、広告、テレビ、現在売れ筋の映画、歌謡曲、小説からのコピー・アンド・ペーストを駆使し、自分の感情や恐怖や快楽さえもそれに合わせる。テレビ経由の感動、ネットや週刊誌にたきつけられた義憤、コマーシャルに煽られた欲望、いわば、小説の細部を埋めるコトバのほとんどが「パクリ」なのである。」


 そしてこの「パクリ」は今に始まったわけではなく、既に80年代から起きており、現在はその「パクリ」が巧妙化したに過ぎないと断じる。
 バルトを引くまでもなく、すべての確立された言説は既に他者のコトバであるわけで、いまさら「パクリ」もなにもあったものではない。しかしそうしたことが頭ではわかっていても、現状の、既視感溢れるお手軽コンビニ小説には私もやはり辟易せざるをえない。
 どうしてこうなってしまったのか。島田氏は「コトバも金も愛もしょせん情報に過ぎない。彼らが繰り出すコトバからは素朴な喜怒哀楽が抜け落ちている。「暴力的な現在」(群像)の井口時男のコトバを借りれば、「もののあはれ」が壊れている。」からだという。
 この「もののあはれ」をどのように解釈すればよいかは、なかなか難しいところだ。しかし言わんとしていることは痛いほどわかる。結局、作家はあらゆる意味で、わかりやすい「今どき」の人になってはいけないのだと思う。
 大衆迎合し、ワイドショーなどで口当たりの良い正論を吐いて恥ずかしさも感じないような作家は、所詮、時代のあだ花で終わる。やはり作家は、あらゆる言説に対して、ある種の含羞と後ろめたさを持っていてもらいたい。自分自身を含めて、ほんとうにそうなのかという疑いを持っていてもらいたいと思うのだ。
 そうした姿勢から、借り物でない「素朴な喜怒哀楽」が生じてくるような気がしてならない。


 そんな意味から言えば、今の世の中、小説家より落語家(座布団積み上げて喜んでいる奴ら除く)のほうが遙かに「もののあはれ」を理解している。落語は人間の業を肯定する芸能と言ったのは談志だが、まさに落語には人間本来の感情と論理の原型が詰まっている。
 まあ最近のコンビニ小説家にそんなことを言ってもしょうがないだろう。ただ、歴史というものは残酷なので、おのずとその結果はそのうち現れる。


 日本人以上に「もののあはれ」を知っていたラフカディオ・ハーン先生はかつてこんなことを言っていた。
「ところで、ジャーナリスティックな安っぽい情緒に訴える文学と、本物の文学との相違は、これと全く同じ類のものである。安っぽい文学は、さしあたり非常に儲かるが、本物の文学のほうはほとんど儲からない。(中略)しかし、安っぽい文学は、初めて読んだときは本物の大文学より楽しいものであるが、二度目に読むと欠点が目に付く。(中略)ついには、欠点ばかり目についてしまい、読者の楽しみは台無しになってしまう。読者はその本を捨てるか、すっかり愛想をつかしてしまう。大衆も同じように振る舞うものだ。彼らは今日気に入っていたものを、明日には捨ててしまう。彼らがそのように本を捨てることは正しいことだ。なぜなら、それは入念に作られた著作ではないからである。」(「さまよえる魂のうた」所収「文章作法の心得」)
 そして更に、こういう金言も言っていた。
「新刊の書物が出たと聞いたら、いつでも古典を読みたまえ」


 この他にも、大衆小説家が聞いたら、激怒するようなことをいくつも語っている八雲先生。
 八雲先生が今の世にいたら、きっと誰よりも辛辣な批評家として怖れられることだろう。
 先生は「ghostly(霊的)」というコトバを座右の銘にしていたが、「もののあはれ」とともに、それこそ今の新しい小説に求められていることなのだ。


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小泉 八雲 池田 雅之


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