弟子ァはみんなバカ。

「弟子ァはみんなバカ。」と言ったのは立川談志
 それでも弟子になる奴が噺家になる。
 落語は誰かの弟子にならなければ始まらない世界だ。小説のように新人賞も無いし、宝塚のように学校があるわけでもない。今も昔も師匠と決めた噺家に直談判するしかない。そこで師匠に気に入られなければ終わり。恐ろしく恣意的なシステムだ。仮に弟子になっても将来の保証はなく、師匠の逆鱗に触れれば破門。そして公式なマニュアルなどない果てしなき修行。しかし徒弟制度というのは本来そういうものだったのだ。
 その理不尽なシステムの中から這い上がってくる者こそが、次に師匠と呼ばれる存在となる。
 まあ今は落語の世界も年功序列で、一定の年期を我慢すれば誰でも真打ちになれるようなところもあるようだから、この厳しい話がすべてに当てはまるわけではないが。


 思えば、作家にはなぜ弟子がいないのだろう。新人賞デビューという王道もいいけれど、誰かの書生になって、師匠の技を受け継ぐというラインもあっていいような気がする。
 なぜそんなことを思うのかというと、我が敬愛する作家諸氏がそろそろ老境に達してきているからだ。うかうかしているともう新作が永遠に読めなくなる。いくら日本が世界一の長寿国とはいえ限界はある。


 筒井康隆71歳、井上ひさし71歳、大江健三郎71歳、山田太一71歳、五木寛之73歳、団鬼六75歳、小松左京75歳、吉村昭79歳、北杜夫79歳、丸谷才一80歳、小島信夫91歳・・・。
 この綺羅星のような個性に裏打ちされた文芸の後継者がいないのは、本当にもったいない。
 弟子ァいないのか弟子ァ。


 弟子とは言わずとも、その技をまるごと呑み込み、二代目を名乗るような了見の奴はいないのか。
 新人が出るたびに、新しい個性、文学の誕生とか騒ぐけれど、そんな容易くオリジナルが出てきてたまるものか。
 先達を真似て真似て、どこから見てもそっくりになって初めて、オリジナルが生まれてくるのじゃないのか。


 落語と小説は違うことくらい、百も承知だ。
 そのうえでバカなことを言っている。
 死んだ子の年を数えても仕方ないが、今でも私は新田次郎の新作が読みたいのだ。息子はなんで「国家の品格」なんて書いてるのだ。誰かあのスケール感ぶっちぎりの山岳小説を書いてくれよ。
 吉行淳之介開高健の新作を語る恐山のイタコはいないか。
 澁澤龍彦はどこかで蘇らないのか。花登筺獅子文六はどこにいったんだ。


 筒井康隆御大の新刊が出た。「壊れかた指南」。
 ここ数年の短編が収められているが、どれものけぞるように面白く、特に「新潮」「文學界」用の作品はハイクオリティだ。そのうち文學界に連載されていた「巨船ベラス・レトラス」も出るだろう。
 糞面白いが故に、こうした新作を果たしていつまで自分は読むことができるのだろうと心底哀しくなる。
 筒井師匠の技とこころを受け継ぐ二代目よ出でよ。
 どうかこの世界のどこかでそんな才能が生まれていることを願う。


壊れかた指南
壊れかた指南
posted with amazlet on 06.04.30
筒井 康隆
文藝春秋 (2006/04/26)