梅田望夫+平野啓一郎

marudonguri2006-05-03




「ウェブ進化と人間の変容」と銘打って、例の「ウェブ進化論」の著者梅田望夫さんと作家の平野啓一郎さんが今月号の「新潮」で対談しています。
 梅田さんとこういうタイムリーな対談をするのは、作家では村上龍あたりかなと思っていたので、平野さんという名前は正直意外な感じがしました。しかし少し考えれば、平野さんの最新刊はネット・スキャンダルを扱った「顔のない裸体たち」(新潮社刊)であるので、この繋がりはアリなのでしょう。


 内容はいろいろな示唆に富み、考えさせられるものでした。まだ読んだばかりなので、自分の中でも考えがまとまらず、渦巻いている状態ですが、いくつか印象深い言葉がありました。それを頼りに自分としての受け止め方を見つけていきたいと思います。


 まず、梅田さんは自身のブログを始めてから、人間的な成長を感じたと言います。つまりブログでトラックバックやコメントをもらい、その先にある見知らぬ情報と知性を知ったことで、それまで以上に謙虚になり、深く考えるようになったと。
 これは本当に幸せな体験ですね。ブログを契機に、ネットが無ければ一生出会わなかったような無二の友人を得るということは充分ありうることだと思います。
 それに比べ、平野さんはネットからの反応というものについて、かなりネガティブな気持ちを持っています。それはトラウマと言ってもよいものだそうです。
 平野さんの書く作品はデビュー作から現在に至るまで、その多くにアグレッシブな意図を感じます。それは現代に生きる作家としての使命を自らに厳しく科しているようにも私には思えます。
 当然そうした作品には、賛否両論が巻き起こります。中には悪意の塊のようなものもあるのですが、そうした多くを不幸にもネットで目にしてしまった平野さんは、すっかりネットに対して暗い先入観ができてしまったようです。


 平野さんは、そうした心にもない無責任な言葉がネットに溢れるのは、匿名性にあるのではないかと言います。
 (このへんが緊急出版したという前述の「顔のない裸体たち」を著す動機に繋がっているのですが)
 フランスなどのブログは実名が目立ち、顔写真を晒している人も少なくないが、日本は圧倒的に匿名ブログが多く、プロフィール写真には、自分の顔の代わりに愛するペットの写真などが貼り付けている人が多いと、平野さんは感想を持ちます。(ちなみに、梅田さんのブログもプロフィール写真は愛犬です。私もmixiではそうしています)
 それは、日本人はリアルな社会での振る舞いと、ネットにおける言動に落差があるためで、その原因は公私の区別が社会的に、きつく求められるからではないかという議論に繋がっていきます。


 しかし人格が状況によらず完全一致するような人はあまり想像できません。私自身、自分でもわからないほどの多様な人格を持っていますし、そここそが人間のおもしろいところであり、それを考えるのが文学の役目だと思うのですが・・・。
 そもそも、本音と建て前の使い分けや、場の空気を読むというのは、本来、日本人の美徳だと思っていたのですが、いつから欠点のように言われるようになったのでしょうか。私は裏表の無いと称する人や場の空気も読めない人とは正直あまりつきあいたくないですね。


 梅田さんはこうした匿名のネガティブ性については違和感を感じているようで、このへんに両者の今まで過ごしてきた環境の差が表れていて興味深いです。難解な語句をちりばめた作品で突然現れ、そのままいきなり芥川賞受賞、本人はピアスで茶髪な大学生という強烈なデビューを果たした平野さんの「有名人」故のつらさが伝わってきます。
(全然関係ないですが、北野武の映画「TAKESHI'S」にも似たような哀しみを感じました。しかしこういう種類の感情は有名人になってみないと決してわからないものでしょう)
 逆に言えば、会社という組織を体験してみないと、決してわからない感覚があることも事実です。このへんから生じる両者の”齟齬”がおもしろいところです。
できれば、雑誌という整った形ではない、生のやりとりを聞いてみたいものです。


 この後、対談はグーグルを起点として、情報を捉えるという思想に入っていくわけですが、それについてはまた少し時間が経ってから考えてみたいと思います。


ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まるウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる
梅田 望夫


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平野 啓一郎


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