作家とダイレクトに繋がる時代。

 前回のエントリーを「ウェブ進化論」の著者の梅田望夫さんからトラックバックをいただきました。ありがとうございます。
 http://d.hatena.ne.jp/umedamochio/20060503
 このように著者のかたとダイレクトに繋がるというのが、まさに梅田さんの言われるようなネットの醍醐味なのでしょう。
 考えてみると、昔は(今でもたいていそうでしょうけど)、読者と著者が繋がることなどほとんど無く、出来ることといえば、ファンレターのような手紙を書く程度で、それも出版社経由なので、本当に届いているのか定かでないという状況でした。もちろん返事など期待するべくもありません。そうした状況に比べれば、何とも夢のような時代になったものです。


 前にこれは「群像」に書いたことですが、私は子供の頃、小説を読んで感動すると、その思いを直にどうしても伝えたくて、作家の家を訪ねていくということをしばしばやっていました。今から思えば、迷惑千万な話ですが、まだのんびりしていた時代だったのか、ほとんどの作家の人たちは快く会ってくれました。
 たとえ瞬くような短い時間でも、作家の実体に遭遇すると、その作家の作品を読む目線が変わってくるのは不思議なことでした。文章のひとつひとつがまさに肉を伴って立ち上がってくるのです。ある意味、人間同士、直接会うということは怖いことだなあと思います。コトバの裏に背負っているものが会った途端に見えてしまうと、それはそれでヘビーなことです。ネット上で匿名同士としてやりとりしていたい原因はそういうところにもあると思います。
 知り合いたいけど、知り合いたくない。そういうジレンマをずっと抱えています。


 さすがに今は作家の家をアポ無しで訪れるようなマネはしていませんが、たまに街で作家の人を見かけると、何か語りかけたくなってしまうこともあります。
 先日も、都営新宿線神保町駅辻原登さんとすれ違い、「「イタリアの秋の水仙」、面白かったです!」と心の中で叫んでおりました。渋谷のオーチャードホールで人待ち顔の黒井千次さんを見かけた時も、「「危うい日」、大変楽しゅうございました」と心で敬礼を送ったものです。
 それにしても、作家と生身で付き合っていかねばならない編集者という仕事はつくづくタイヘンですね。

 
 直に人を知るということで言えば、テレビを通じて誰かを知るということは、少し微妙な点があると思います。
 特に文化人がテレビで喋ったり動いたりしてしまうと、それだけである種のオーラが消えていくような気がします。いくら傾聴に値することを発言していても、動くという現象そのものに興味が行ってしまい、妙な消費感だけが漂うのです。これはテレビというものが持つ致命的な厄介さです。
 昔、「ベストテン」でオフコースがずっと出演拒否しましたが、あの番組に出ないということで、彼らの文化的価値は上昇したと思います。
 作家で言えば、村上春樹が画面に一切出てこないというのも、彼のオーラを高めていると思います。
 そうした意味で言うと、映像アーカイブが進む現在、文化人は自己のオーラを保持することが極めて困難になってきています。


 最近、フランスが大規模な形で、映像資料をネット公開したという記事が話題になっていました。
  http://toshio.typepad.com/b3_annex/2006/05/ina10.html
 その中で、ミシェル・フーコーが動いているシーンが取り上げられていましたが、これを見て、私は、馬鹿な話ですが、「あ、フーコーって実在したんだ!」と思ってしまいました。
 やはり歴史上に名前を遺すような人物は、動いてほしくないですね(笑)。むしろ、その存在が曖昧なくらいがオーラが増すのではないでしょうか。たとえば、豊臣秀吉聖徳太子に喋っているような記録があったら、お寺に祀られたり、お札になったりしなかったのではと妄想もしてしまいます。
 今後は、メディアを逆手に取った人が偉人として名を残すようなこともあるかもしれません。


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