時をかける少女、復活。
原作の筒井康隆氏が「よく稼いでくれるお嬢さん」とコメントしていましたが、この「時かけ」、今回で実に7回目のリメイクです。
時代が移り変わっても、魅力を失わない力がこの作品にはあるようです。
ディープなツツイストとしては、他の作品に比べて、「時かけ」には黒い部分が無く、正直食い足りないところはあります。
しかし、今回の映画のように見事なばかりのリメイクを目の当たりにすると、やはり「時かけ」があって良かったと思う次第です。
まああまり「時かけ」ばかり、もてはやされると、後世になって筒井康隆の代表作=時をかける少女、となりかねないのが恐いところですが。
とにかく、何が言いたいかというと、今回の映画「時をかける少女」は大傑作だということです。
監督である細田守氏の作品は、「デジモン」「どれみ」等、以前からチェックしていましたが、今回の「時かけ」は、まさに彼の真骨頂の部分が集約された奇跡的な仕上がりを見せています。
細田氏の作品には共通して流れるある感覚があります。それは観る人によって形を変える不定形なものなので、うまく言葉では表現できませんが、強いて言うなら「一回性の甘酸っぱさ」と「性差を超えた乙女ごころ」ではないかと思うのです。
「時かけ」はご存じの通り、時空を跳躍できるSFです。主人公は自在に自分の行為をリセットし、人生を上書きします。不可逆の時間に抗うことができないように運命付けられた人間にとっては、このやり直しがきくということは全能感を生み出します。
しかし、それでもなお、意識というものを持つが故、人間は「一回性」という宿命からは逃れられないのです。どれだけ同じ場面をリロードしてもそれは決して「同じ」ではないのです。永遠に「同じ」時間には出会えないのです。
かつて、歌人の桝野浩一氏は「どことなく 微妙にちがうものだった なくしたものを取り戻しても」と歌い、「一回性」という定めを見事に表現しました。(ちなみに浜崎あゆみの「TO BE」には、これとそっくりのフレーズが出てきます)
この「一回性」というものに寄せる、なんともやるせない甘酸っぱい気持ちがどれだけわかるかによって、「時かけ」への感動度が決まってくるのではないでしょうか。
そして、甘酸っぱい気持ちがわかるには、「乙女ごころ」が胸に宿っていることが必要です。
この「乙女ごころ」の重要性に気付いたのは、かの有名な内田樹先生のブログを読んだことからでした。
先生曰く、
「『若草物語』や『赤毛のアン』や『愛の妖精』をなるべく早い時期に読むことがたいせつなのは「少女の身になって少年に淡い恋をして」ぼろぼろ涙ぐむというような感受性編制はある年齢を超えた男性には不可能になるからである。
そのような読書経験を持たなかった少年はそのあとにさまざまなエロス的な経験を積み、外形的知識を身につけても、「前思春期の少女の恋心」に共振して泣くことはむずかしい。
でも、それは物語のもたらす悦楽の半分をあらかじめ失っていることなのである。」
(「内田樹の研究室」2006.07.05「おとめごころを学ぶ」より)
http://blog.tatsuru.com/archives/001816.php
私がこのような乙女ごころをきちんと持っているかどうか微妙ですが、確かに今回の「時かけ」に心を動かされるためには、こうしたものが必要だったように思います。
普段は心の底に沈んでいる「乙女ごころ」だけに、この映画によって、その存在を自身の中に発見するという驚きも手伝って、より一層の強い感動を呼び起こしているのかもしれません。
ネットの口コミも手伝って、今や連日超満員(上映館が極端に少ないこともありますが)の「時かけ」、私が見た限り、圧倒的に男性客が多かったように見えました。
彼らは、自分の中の性差を超えた甘酸っぱい「乙女ごころ」の発動にとまどい、恥ずかしながらも、こみ上げる感動を抑えることができない状況をネットなどで語っています。その言説を共有することで、我々は自身の「乙女ごころ」と折り合いをつけ、再び、現実に踏み出す力を得るのです。
細田守氏がこの夏、不意に届けてくれた「時かけ」という作品は、忘れていた「乙女ごころ」の重要性を、これ以上ない手法で見事に表してくれました。この夏が終わる前に、もう一度、観に行きたいと思っています。
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