「ウェブ人間論」を読んでみた。

ウェブ人間論ウェブ人間論
梅田 望夫 平野 啓一郎


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さっそく読んでみました「ウェブ人間論」
先に「新潮」で行われた対談の完全版といった内容です。
「新潮」という文芸誌の記事として読む限りは、梅田望夫×平野啓一郎という組み合わせにあまり奇異を感じないと思います。
しかし、こうして一般層向けの新書として改めて見ると、多くの人は、なんで相手が平野氏なの?という疑問を抱くかもしれません。
村上龍とかならわかるけどという感じでしょうか。
平野氏とネットということが結びつかない人が多いと思います。
「顔のない裸体たち」や「滴り落ちる時計たちの波紋」といった作品を知っている人だと、彼が実は適役であることも理解できるんですが。
そもそも文学者とウェブって、本当は一番近い関係にあるはずなのに、そのへん自覚している作家は少数ですからね。
逆に、ネット音痴みたいなことを標榜したほうが、古きを愛する作家としてステイタスが保持できると思ってるような人が多いですし。


しかし、本書の中でも触れられていますが、世代論的に言っても、相手は平野氏でなくてはならなかったのです。1975年生まれの平野氏という意味で。
1975年という年が、ものの考え方の分水嶺にあると梅田氏は言います。
特にネットに対する考え方と行動原理が、他の世代とは決定的に違うということです。ミクシィの笠原社長、はてな近藤社長も75年生まれです。
こういう問題を世代論で切るというのは、血液型占いくらい乱暴な話であると思いますが(サンプル数が少なすぎるし)、
話としては最高に印象深いものです。こういう切り口を持ち出せるところが売れる秘密なのではないでしょうか。
来週以降、知ったかぶりのお父っつぁんが若い部下とかに「おまえ、何年生まれ?74年?惜しい、あと一年遅く生まれてれば、ネット長者だったのに」なんて言ってる光景が目に浮かびます。


内容の多くは「新潮」対談の延長なので、個人的には新鮮さはなかったのですが、ひとつ気にかかることはありました。
それは、平野氏が全く現在の日本文学について言及していないことです。
梅田氏がグーグルやミクシィなど自分のフィールドの同業他者(?)を様々引き合いに出している一方、平野氏の口からは、現代文学の具体的なものは出てきません。
テーマがネットとの付き合い方であるので仕方がないとも思いますが、文学というフィールドの現状も周りを見回して少し語ってほしかったですね。
こういうベストセラーの可能性がある本で、今こういう作品と作家が、僕を含めてこれだけいますよとアピールしてくれれば、現代文学全体にとってどれほどメリットがあったことか。
そう思うとちょっと残念です。
まあ自分の作品以外読まないという作家も多いですし、他人の作品なんか知ったこっちゃない、そんな紹介は作家ではなくて評論家の仕事だと言われてしまいそうですが。
本書ではもっぱら、本という媒体のかたちの行方(ダウンロードか紙かということ。まあそんな話、所詮、電気が常に通じる先進国だけの話ですね)ばかりに話が行っていますが、
やっぱり書かれている内容の変化も気にかかるところです。
この議論はどこかゲーム市場の話に似ています。ハードの議論に終始して、肝心のソフトについては考えていなかったというような。(PS3のようです)
いくら読むのに不便な本でも、自分が絶対読みたいと思う内容だったら、重くて腕が折れそうでも読みますし。
今回の議論がそういう話ではないこともわかっていますが、少しハード主義に偏っているというか、あまり便利なことばかり考えるのもどうかと思いました。
例えば、ほぼ日で作ったよしもとばななの「ベリーショーツ」という本制作にまつわる話など読むと、便利さよりも素敵なことがあると思ったりします。
「ベリーショーツのこぼれ話」


ちなみに日本の現代文学がネットと切れているわけでは決してありません。
作品の中で、ことさらそれをわかりやすいかたちで出そうとしていないだけです。
作家は、常に言語化できないものを掬おうとするものです。
ネットで感じたことをストレートにネットを題材にして書けば、わかりやすくて売れるかもしれませんが、それはたちまち風化します。
作家はよく炭坑のカナリヤに喩えられますが、社会の中の微妙な違和感や畏れを誰より早く察知して、
それを感じ取れない同時代の人には時に馬鹿呼ばわりされるリスクを持った存在だと思うのです。


綿矢りさの新作「夢を与える」の主人公のアイドルは、最後、自分のハメ撮りビデオがネットに流出して人気を失います。
YouTube的なものに敏感に反応した結果であるとも言えますが、評論家連中からは、通俗的、失敗作というレッテルを早々貼られてしまいました。
しかし、私はこの作品に通俗という冒険を犯してでも言語化したかった何かが作者にはあったのだと思っています。
(これについては、こちらに詳しく書きました。)
また、最近の笙野頼子の作品は、ネット言語に寄り添うような雰囲気があります。
彼女の作品の凄いところは、ネット言語を日本の伝統的エクリチュールであるかの如く、自然で自在に使っていることです。
彼女の伝えたいことを言霊的に相手に投げつけるには、ネット言語を使うのが最も自然で適切な選択なのでしょう。


他にも中原昌也の再近作にシンクロしたという筒井康隆の作品も来月に登場します。(これも「新潮」ですね)
筒井氏は「朝のガスパール」というネット文学の金字塔ともいえる作品を既に90年代初頭に発表していますが
(ここで既に「ウェブ人間論」で論じられているようなネット言論についての考察と実践が描かれています)、
今回掲載される「ダンシング・ヴァニティ」は、ネットについての彼なりの答えが書かれているものと期待します。
ちなみに、その作品の発表に先駆けて、「新潮」今月号に「小説と共時性」というエッセイが掲載されていますが、
曰く、今回の作品は「インターネット時代の新しい人間精神を小説的言語がいかに描きうるかを試みたもの」とのことです。


すらすらと読んでしまった「ウェブ人間論」、読みやすくて物足りないくらいですが、
実際ネットを体験したことのない人にとっては恐怖と焦燥を生み出す書かもしれません。
そういう世代からの見えない反発と憤懣が増える結果となるのも嫌なことです。
これは私が日常的に会社という組織の中にいて感じることです。
普段ネットに物わかりの良いふりをしていても内心忸怩たる思いを抱えていて、
少しでも失敗や問題が起きると、それ見たことかと叩きにかかる上司は結構多いのです。


ライアル・ワトソンの「ダーク・ネイチャー」という本にレミング集団自殺の発生プロセスが書かれています。
あるきっかけでレミングの集団密度が高くなり、それが頂点に達すると死への行進が始まるわけですが、
興味深いのは、その行進に参加する個体の多くが若年層であることです。
彼らはその密度が高くなるにつれ、なぜか幼体化し、攻撃的な老年層から反発を食い、追い出されるというプロセスを辿ります。
なんだかこれからの日本の姿を暗示しているようで空恐ろしい気分です。
オタクとネットというものを同一視して毛嫌いするる中高年は結構多いですからね・・・。
そういう層とも融和できるようなネット本が出ることが望ましいですが、現実にはなかなか難しいことでしょうね。
この本がそういう一助になればと願うばかりです。


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