村上春樹「アフターダーク」をめぐって

 「群像」10月号特集「新しい「村上春樹」」。
 人間つかまえて新しいも古いもないんだけど、要は来週出る新刊「アフターダーク」の宣伝というわけ。
 いろいろな作家や評論家が村上氏の過去作などの思い出やら今回の「アフターダーク」の感想やらを載せているのだけれど、そのどれを読んでも驚くべきことに、ふーん面白そうだな、じゃあ読んでみるかと思えないのだ。これって本の宣伝としては失敗なんじゃないのかな。
 これなら悪評高いアマゾンのレビューのほうがよほど参考になる。
 つまりは皆、素直に感想書いてないというか、妙にひねっちゃってて、何が言いたいんだか結局わからない。これ、おすすめ!って一言書けば済む話なのになあ。
 書評みたいのって、やっぱりフツーに書いたら馬鹿にされると思ってるのかな。取り上げる過去作品にしても妙に古いようなの出してきて外してるような感じだし。だいたい普段から村上春樹の本、好きで読んでるっていう風なヒトが誰も書いてないというのがそもそも問題だ。どこかやっぱり村上春樹が好きとかいうのは彼等にとって恥ずかしいことなのだろう。


 文芸批評はこれに限らず、何が言いたいのかわからんもので満ち満ちている。わざと難しく言うことによって、明らかに文章と自分の格を上げようとしているらしいが、そんなのは本買うユーザーにとっては、邪魔なだけだ。
 もっとその本の魅力を的確にわかりやすく伝えてほしい。小説って、そんなに深読みしなきゃいけないもんじゃないだろう、本来。
 映画の批評みたいにもっと素直に、内容とおもしろさ、ダメさを紹介してもらいたいものだ。そういうの頼りに買ったりするわけだから。


まあそれにしても某評論家なんかスゴイ文章書いてますよ。これ意味わかります?

アフターダーク」は、超越的な視点と対象となる世界との間の同種の関係を、重層化して、作品の中に畳み込む。こうした重層化がなされるのは、超越的で窃視的な視点と対象となる世界の関係が生成し、成立する機制をも作品化しようとする野心を、この小説が含んでいるからではないだろうか。

 ないだろうか、って言われてもねえ。
 正直よくわからんですよ、これじゃあ。
 別にそこらへんのオバチャンにもわかるようにとは言わないけど、もう少し書きようがあるんじゃなかろうか。だいたい窃視的なんてATOKで変換しませんよ。
 こんなんがどんどん続きます。

 彼は、いつも自分のことを「空っぽ」であると形容している。つまり、彼は、自己の空無性の直接の具体化なのである。

 はあ?
 つまり、と言い換えてから後の文章のほうがさらに難解になっているのはどういうことすか。「自分は空っぽだと自覚している」っていうだけでいいじゃないすか。
 空無性っていわれても意味が向上するとも思えないんだけど。ちなみに空無性もATOK変換不能。それにこれ、Wordの 校正支援なんか入れとくと、「の」が3回続いてます、とかって指摘されますよ。


 まあ自分も書評のまねごとみたいなことしてるんで、自戒の意味も込めて書かせていただきました。
 群像自体は、今月号、短編がたくさん載っていておもしろいんですけどねえ。
 特に、プラネタリウムなど宇宙ネタ絡んだ作品、
「アーリオ オーリオ」絲山秋子とかは科学系の方にもおすすめですよ。


 たこ塩辛 鶏唐揚げ
 そば茶