古典を語ること 

 「薔薇の名前」がスペシャルDVD化されると聞いてうれしくなる。この作品はある意味、自分と自分をとりまく世界との関係を変えてくれたと思っている。映画の中身は中世の修道院を舞台にしたややミステリーっぽい物語で、現代とはまるで違う中世の風習などがふんだんに出てきてとても興味深い。しかし、これはあくまで今の現代人の視点で考えた中世の世界であって、中世の人々の世界観に則してつくられたものではない。
 それに気付かせてくれたのは当時の大学の恩師である。ショーンコネリー扮する修道士が次々と謎を解いていくのだが、そもそも謎を解くという行為自体が中世人の思考ではありえないらしいのだ。細かい理由は忘れたが、中世の人々は自分と自分の周囲に起こる現象をすべて大自然の原理の中で捉えていて、自分の意志でそれを変えていくということはありえず、そういう個人の人格は近代になってからようやく芽生えるものであると。悪魔の存在も信じず主犯を人間とにらんで謎に挑戦する探偵ばりの人間はありえないのである。恩師曰く、ショーンコネリーは中世にタイムマシンでやってきた現代人であると。
 これを聞いて、古典というものを解釈することがいかに難しいかを感じたものだ。古典がつくられた当時の世界観をちゃんと理解することは並大抵のことではない。厳密に言えば、古典のすばらしさを本当に理解できるのはその当時の同時代人だけだ。残念ながら現代の我々は古典の中にわずかに残った当時との共通項を見つけて、その価値を偲ぶことしかできない。
 古典のすばらしさを安易に記す者はとかく返す刀で、現代のものを貶す傾向にあるが、それは歴史というものをまるでわかっていないことの証明だ。古典の多くは確かにすばらしいが、それを語るとき、本当にそのすばらしさを自分は理解しているのかと自問してみたい。単に評価が定まっているからとかだけで傑作と判断しているのではなかろうか。逆に言えば古典至上主義者が現代のものを貶すのは、その判断のよりどころとなる評価が定まっていないからともいえる。要は自分の感性に自信が無いのだ。
 この世に発表されるすべての作品はそれが生まれた時代とリンクしている。その時代について考えることなしに、作品だけを語ってもそれはナンセンスとしか言いようがない。
現代文学の一節と古典の一節を単に並べただけで、古典の文章のほうが優雅で美しいなどという批評など呆れてものも言えない)


タイ風春雨 海鮮炒め