文楽というもの。

 国立劇場「恋女房染分手綱」。重の井・三吉の母子悲話。どちらかというと地味な話なのに、満員御礼。最近の文楽のメディア露出の効果が現れ始めているのだろうか。
 そういえば発売されたばかりの「オール読物」にも人形遣い桐竹勘十郎氏と赤川次郎氏の対談が掲載されていた。
 ほかにも朝日新聞に簑助と簑紫郎に関する記事、「すばる」では豊竹咲甫大夫のエッセイが載っている。


 今まで文楽といえば、常に人間国宝吉田玉男・簑助両氏ばかりであったが、やっと最近、勘十郎氏など中堅・若手にスポットが当たるようになってきた。やはりそういう人がいるということがわかるだけでも、イメージ的にも新鮮な印象になる。
 そもそも文楽人形遣いでは大御所以外は黒子の頭巾かぶっていて顔が見えない。さらに足遣い、左遣いと修行の期間が何十年と果てしなく長い。なかなか若手が見えてこないのも当然なのだ。
 まあそういう厳しい芸道の環境があったからこそ、世界に比類のないレベルの芸能を維持し続けているわけだが。


 ところが、今回、見てびっくりした。若手の主遣いらが顔を出して遣っているのだ。特に、おてんばの調姫役の簑紫郎、三吉役の一輔などは動きもすばらしかった。顔が出ているせいで、彼等のがんばる表情もわかって興味深い。
 一番印象的だったのは、彼等の芸を見守る簑助氏の眼差しだ。じっと見つめるその表情から多くを読み取ることはできなかったが、師匠としての厳しいものを見た気がした。
 簑助氏は弟子に直接教えることはしない。口で教えてわかるものではなく、やはり舞台で知っていくものなのだろう。そうしないと、若手は単なる簑助氏のコピーになってしまい、自分独特のものを見つけることができない。簑助氏は段取りが決まった舞台が嫌いという。その日その日で考えたことを演じていかないと、やっていてもつまらないのだと。プロになればなるほど、自分の技に安住してしまうものだが、そこで立ち止まらずに、さらにその先を追求していくわけだ。このへんの言葉は私にとっても重く響く。


 ちなみに文楽は大阪が本拠地なので、東京は彼等演者にとって出張である。出張先の東京はこのところ満員御礼だが、大阪はそうでもない。
 大阪の人々は近鉄も見に行かずに潰してしまったが、文楽にもあまり興味がないのだろうか。せっかくの伝統的な大阪文化なのにもったいないことだ。


 おでん たまごやき
 神亀