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「流れゆく日々」E.G.サイデンステッカー。
川端康成の「雪国」を英訳などしたことで有名な文芸評論家の自伝。川端を始めとして往年の文豪、三島由紀夫、谷崎潤一郎などとの交友が抜群におもしろい。こうした交友録はとかく自慢話めいてしまうおそれがあるのだが(たとえば石原慎太郎の「我が人生の時の人々」のように)、この本はそのへん抑制が効いていて、文豪たちの生身の姿を赤裸々に知ることができる。
こういう文豪らの作品論はいくつもあるわけだが、こうした普段の生活を評したものはなかなか無い。そういう証人らも既に鬼籍に入ってしまっているから無理もないわけであるが。
おもしろいのは、三島も川端も谷崎もノーベル賞の常連候補で、常に受賞を意識していたということだ。今の日本の文学状況とはスケールが違う。たとえば現在の芥川賞・直木賞選考委員とかの中で、ノーベル賞などが囁かれるような文豪は果たしているかどうか考えてみればその差は一目瞭然だ。
まあノーベル賞至上主義というのも議論があるところではあるが、少なくとも今でもひとつの到達点であることは間違いない。
川端がノーベル賞を獲った時に著者は、講演の英訳などでストックホルムまで同行するのだが、その記述などが多くさかれていて興味深い。その時の川端の講演は「美しい日本の私」というあまりにも有名なものだが、それは授賞式ぎりぎりまで書かれておらず、翻訳する役の著者は相当テンパッていたことが記されている。今では名著と呼ばれているが、著者の見解では、論旨が散漫であまり出来のいいものではないとしている。これはたぶん、川端の文学をずっとそばで見てきて、深くそれを理解していた者だけが言える言葉であろう。最近、三島などはやさしいガイド本などが出ているが、川端に関してはいまいちそこまで復活の気配がない。もう少し見直されてもいいような気がする。
「このライトノベルがすごい!2005」(宝島社)。
「このミス」はおなじみだが、ついにライトノベル版が登場した。それもうなずけるほど、最近のライトノベルの快進撃は目を見張るものがある。これはひとえに「ファウスト」の功績といってもいいと思うのだが、それだけでなくやはり今の時代に一番フィットした文学であるということなのだろう。
ふつうの作家に比べ、ライトノベルの作家は揃って多作だ。西尾維新などは一日200枚も書けるというから、まさに小説マシンだ。多作のうえ、作家数も多いので、さすがにその多くは未見だ。自分のフィールドの狭さを実感する。
ライトノベルに関しては、仕事上でも今最大の関心事であり、先日もある会議で、映像との積極的リンクを提案したばかりだ。
まだ誰もしていない試みを他のメディアからの視点でおこなってみたいと考えている。
このほかにもいろいろ今月は記載すべきことがあったが、またそれは次の機会に。