今月の文芸誌。

無銭優雅
4344012844山田 詠美

幻冬舎 2007-01-31
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おすすめ平均star
star山田詠美
starエッセイの様な
star大人のための『ラビット病』

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 新刊が出た影響か、山田詠美先生が「群像」「文學界」でそれぞれ対談しています。
 新譜PRのために出てくる浜崎あゆみみたいですね。
 「文學界」の相手は今回芥川賞選考委員を退いた河野多恵子氏です。テーマはずばり「文学賞とは何か」。
 芥川賞選考委員という「選ぶ」立場からの話が興味深いです。
 それにしても、山田先生は賞の話が大好きですね。正直な気持ちがコトバに表れていて好感が持てます。
 「小説トリッパー」に載っていた中原昌也芥川賞落選ドキュメントについて痛罵を放っているのが最高です。


 「群像」の相手は、今や大御所となった感のある川上弘美氏です。
 テーマは「小説とは地味なものです」ということで、それぞれの小説論を披露しています。
 一見穏やかな対話に見えますが、そこはライバル同士、小説への姿勢は相手には負けないぞという気合いが感じられます。


 「すばる」はドストエフスキー特集です。斎藤美奈子の「『カラキョウ』超局所的読み比べ」が面白いです。
 『カラキョウ』とは、もちろん「カラマーゾフの兄弟」のこと。
 1915年の初訳以来、14もの訳書がある同書。
 そのニュアンスの変化を示すために、「大審問官」の印象的なフレーズなどを比較しています。
 私は個人的には、柔らかみのある原卓也氏の訳本を愛用しています。
 しかし斎藤さん、小六の時に父に連れられて同書のソ連映画を見ていたとは、凄い少女期を送っていますね。
 ドストエフスキーについては、「文學界」に連載中の山城むつみ氏の「ドストエフスキー」もおすすめです。


 作品系を見ていくと、「新潮」で不定期連載していた舞城王太郎氏の「解決と○ん○ん」(ディスコ探偵水曜日第三部)がついに完結です。
 と、思いきや、最後の付記を読むと、今回をもって第三部が完了しただけで、今後第四部を追加して夏に単行本として出すとのことです。
 この作品、やたらわけのわからない図や表が出て来ていて、果たして収拾が付くのだろうかと心配でしたが、
 ついに単行本としてまとまるようなので一安心です。
 単行本といえば、以前「文學界」に連載していた筒井御大の「巨船ベラス・レトラス」もようやく来週16日に発売です。
 お得意のメタ・フィクションを使って、現代の文芸事情をぶった斬る痛快な作品です。
 作品中に出てくる北宋社問題(著者に無断で作品集を刊行)のその後も気になるところです。


 注目の小説は、「文學界」掲載の小林信彦日本橋バビロン」です。
 自身の幼少期の思い出を絡めた、お馴染みの「東京懐古」ものです。
 東京の昔を知らない者に対する嫌みがいつものように滲み出ていて素敵です。


 エッセイ系では、いろいろ細かい鍔迫り合いが、あちこちで起きていて面白いです。
 田中和生氏が平野啓一郎の新刊をぼろくそに言ってます。
 「幼児的な作家」「最悪に近い具体例」等。
 まあ実験的な作品集ですから好き嫌いが分かれるところでしょうが、それにしても痛烈です。
 実験的という意味では同類の福永信が、「新潮」で冷静にそれぞれの作品を分析していたのと対照的です。
 あと、西村賢太氏が「文學界」の著者インタビューに登場しています。
 そもそも氏のデビューはこの「文學界」に同人誌優秀作として掲載されたことにあるのですが、
 なぜかその後、「文學界」では作品を見かけません。
 今回の著者インタビューという取り上げ方に対して、西村氏はどう思っているのでしょうか。
 インタビューでは、その作風に対する世間の批評について、率直な言葉での反論を行っています。
 岡田睦という新機軸の貧乏作家も現れている折、今後の活躍に期待です。


 連載ものの「決壊」平野啓一郎、「東京島桐野夏生、「太陽を曳く馬」高村薫、「火の島」石原慎太郎、「歌うクジラ」村上龍とそれぞれ佳境に入ってきているので、読むのが楽しみです。
 短編など印象に残った作品などまた下旬に報告したいと思います。

 


 
 

人間らしくやりたいナ 人間なんだからナ

 

開高健 夢駆ける草原開高健 夢駆ける草原
高橋 昇


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 最近、開高健の顔をよくテレビで見かけます。
 眼光鋭く大声でずばっと言葉を放つ様子は、ぬるま湯的なテレビの中でドキッとする一瞬です。
 晩年は釣りと食の人というイメージが強く、雑誌やテレビではちょうど今の椎名誠みたいな使われ方をしていました。
 50代で早逝してしまったのが何とも残念です。
 今になってその顔をテレビで見るというのは、何か現代に欠けているものを彼が持っているからでしょうか。
 サントリーの宣伝部にいた頃につくったコピーは彼の生き方そのものが出ています。


  『人間』らしく
  やりたいナ
  トリスを飲んで
  『人間』らしく
  やりたいナ
  『人間』なんだからナ


 私にとってトリスはもう小津安二郎の世界の飲み物ですが、
 トリスが生活と直に繋がっていた世代にとっては堪えられない文句だったことでしょう。
 そういえば、昔、ひょんなことでサントリーにイベント企画の提案をしたことがありました。
 今思えば無茶苦茶な話ですが、トリスならぬ「エロス」という酒の提案をしたのです。
 どこか猥雑で暖かく深い懐を持った「場末」を浅草の裏あたりに現出させ、
 昔の酒場が持っていた人間臭さを期間限定で幻として浮かび上がらせたいという気持ちがあったからです。
 それにはずばり「エロス」という名前がいいと思ったのです。
 まあ向こうは冗談と思ったのでしょう、一笑に付されてしまいましたが、
 あの時、私は開高健のこの「人間らしく」の言葉を思い出して提案を喋っていました。
 エロスという言葉の先には開高健がいたのです。
 

 これはCMコピーではありませんが、開高健は自分の生き方の主義を編集者に向けて、こう残しています。


  読め。
  耳をたてろ。
  眼をひらいたままで眠れ。
  右足で一歩一歩歩きつつ、
  左足で跳べ。
  トラブルを歓迎しろ。
  遊べ。
  飲め。
  抱け。抱かれろ。
  森羅万象に多情多恨たれ。

  補遺一つ。 女に泣かされろ。

  右の諸原則を毎食前食後、
  欠かさず暗誦なさるべし。

  御名御璽 開高健
   (「編集者マグナ・カルタ九章」)


なんとももの凄いプリンシプルです。
でもある種、人生の真実ですね。
ベトナム戦争九死に一生を得た体験が影響していると言われていますが、
豪放磊落なエロス的言葉のその裏には虚無的な闇を彼は抱えていました。
アマゾンのレビューでも、「日本で初めてPTSDを取り扱った小説」と指摘されている方がいますが、
彼の代表作のひとつ『夏の闇』はその虚無を真っ正面から捉えている作品です。


そんな虚無にも繋がっているのではと思うのは、
あの有名な「雨と小犬」というトリスのCMです。
雨の中、街をさ迷う子犬の姿を憶えている人も多いはずです。
その映像にはこんなコピーがついていました。


  いろんな命が生きているんだな。
  元気で。
  とりあえず元気で。
  みんな元気で。
http://www.youtube.com/watch?v=Fp43fjmwGkA


コピーは開高健ではなく、仲畑貴志氏です。
開高健が築いたトリスの人間味溢れるテイストを見事に昇華しています。


開高健が放った「人間らしく」という言葉は、
虚無と大胆不敵なエロスを併せ持つ融通無碍な人間のこころを示しているのでしょうか。
それにしても現代には「エロス」が足りませんね。
記号的なエロなものは溢れかえっていますが、「人間らしい」エロはなかなかありません。
美術にも小説にも。そして食にも。さらに言えば街にも。
開高健の小説を今再び読んで、少しエロスについてまた考えたいと思っています。


夏の闇
4101128103開高 健

新潮社 1983-01
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おすすめ平均star
star優れた文体。研ぎ澄まされた文章。
starPTSDを始めて小説化した作品ではなかろうか?
star闇に住んだ人

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恩田陸じゃなくて岡田睦。

明日なき身
4062136422岡田 睦

講談社 2006-12-11
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 それにしても貧乏話というのは、なぜ面白いのでしょうか。
 人の不幸は蜜の味という黒い部分もあることは否めません。
 しかし、あくまで小説として捉えても、貧乏話には格別の味わいがあります。
 極端な金持ちの話もある意味面白いかもしれませんが、やはり貧乏話の豊かさにはかないません。
 いろいろ理由はあると思いますが、とにかく、話が想定内に収まらないところがよいのではないでしょうか。
 金があると物事を金で解決しがちなので、厄介ごとも最短距離ですんなり終わって、他への影響も少ない。
 しかし貧乏だとそうはいかないので、話を収めるためにずいぶんな回り道をしたり、逆に泥沼にはまったりします。
 そして挙げ句の果て、話が思わぬ想定外の方向へ走り出すのです。
 

 世の中には、なんでも想定内と嘯く金持ちもいますが、それではやっぱり人生つまらないのです。
 安定した生活を求めるのは人として当たり前ですが、しかし心のどこかで人は思いがけないものの到来を待ち望んでいるのではないでしょうか。
 それが辛いことであったとしても。
 で、それを疑似体験できるのが貧乏話なのです。
 

 岡田睦という人は、今までもずっと作家活動を続けていたのですが、正直、あまりぱっとしませんでした。
 基本的に私小説作家で、作風も地味な感じです。
 しかし、近年その実生活がいよいよドツボにはまってきて、どうにもならなくなってきました。
 三人目の妻にも逃げられ、ろくな仕事もないので生活保護を受け、コンビニのおにぎり一個で一日を過ごします。
 家は妻の名義だったので追い出され、老人向け安アパートに引っ越すのですが、風呂もエアコンも壊れて風邪を引き、
 洟をかんだティッシュの処理に困り、火をつけたら、壁に燃え移り、部屋を全焼させます。
 今では介護施設に収容されていますが、そこでも問題児扱いで様々なイジメに遭っているようです。
 

 このへんの顛末をぽつぽつと二年前くらいから書き始めたら、いきなり、面白い!ということになって、今回このような本にまとまったというわけです。
 人生何が幸いするかわかりません。いや、これが幸いであるかどうかは微妙なところなのですけれど。
 

 貧乏私生活を売りにする作家は今でも何人かいますが、この人はその中でも一味違うのです。
 なんといっても面白いのは、その文が飄々としていることです。
 書いていることは悲惨なのですが、語り口がどこかユーモラスで独特の軽みがあるのです。
 諦念でも開き直りでもない、自然な軽み。
 仙人と言うと言いすぎですが、なかなか普通ではたどり着けない境地が、文章ににじみ出ています。
 ドツボの果てに掴んだ文体なのでしょう。
 なかなかお目にかかれない作品です。
 この本を今流行の下流という言葉や状況に結びつけて論じる人もいます。
 勿論そういう視点から捉えることもありだと思いますが、あくまで小説作品として読み、
 その文体が醸し出すダンディズムを味わえればと思っています。
 

 この本についての書評を来月号の「群像」に書きました。
 いろいろ考えさせられることも身辺にあったので、それとともに書いています。
 よかったら、ご覧ください。

わかれてきた道がまっすぐ

山頭火句集
4480029400種田 山頭火 村上 護

筑摩書房 1996-12
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おすすめ平均star
star懐かしい山頭火
starしんしんとした静寂
starカオル

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年末から正月にかけて山頭火を読んでいました。
句集「草木塔」の他に、行乞の日記、そして山頭火の生涯を描いたコミックまで探して読んでしまいました。
それというのも、12月にNHKで放送していた「私のこだわり人物伝」の影響です。
ナビゲーターの仲畑貴志氏の話も面白かったのですが、なんといっても素晴らしかったのは、福島泰樹氏の語りです。
福島さんは絶叫歌人として有名な方ですが、なぜかこの番組のナレーターを務めています。
円谷英二など今までの回では正直、声色的にちょっとどうかと思っていたのですが、
さすが歌人、この山頭火の回では、その絶叫ぶりを本領発揮しています。
ナレーターとは思えぬほど感情を爆発させた句の詠みが素晴らし過ぎるので、
録画した番組のうち福島さんが詠む句の部分だけ切り出して再編集してしまいました。
(福島さんは絶叫ライブのDVDも出していますので、ぜひその雄姿もご覧ください。)


この福島さんの感情爆発詠みのおかげで、今まであまりピンときていなかった山頭火の句が
急に輝き出し、ついにまとめて読む気になったのです。
無頼の俳人山頭火
世間が嫌いなくせに、孤独の中では生きていけないさびしがり屋。
酒乱で働かず、周囲の人に迷惑をかけ続けて死んだ男。
そんなどうしようもない人間なのに、残した句はなぜか澄み切っているのです。


「しぐるるや死なないでゐる」
「酔うてこほろぎと寝ていたよ」
「こんなにうまい水があふれてゐる」
「陽を吸う」
「まっすぐな道でさみしい」
「鉄鉢(てっぱつ)の中にも霰(あられ)」
「どうしようもない生き物が夜の底に」
「かうしてここにわたしのかげ」
「うしろすがたのしぐれてゆくか」


山頭火はとことんダメなおっさんです。
今の時代に山頭火がいたら、きっと見捨てられて病院か警察行きでしょう。
こんなダメで迷惑千万なおっさんを、困りながらも支えていた多くの人がいたことが驚きです。
そんな人々がいたからこそ、彼の生活は貧乏でもどこか飄々とした太平さがあり、句が濁らず澄んでいるのだと思います。
今より飢餓や病気のリスクが高い時代なのに、なぜか余裕があるようにも見えます。
山頭火よりお金があっても、今の時代、どこか追いつめられたような気持ちになるのはどうしてなのかと
彼の句集を読みながら考えています。
今は貧乏を許さない、貧乏が悪の時代だからかもしれません。


山頭火の句は五七五にとらわれない自由律俳句です。
番組で仲畑氏も言っていましたが、そのまま現代のCMコピーにも使えそうなものまであります。
昭和のはじめに詠んだ句が、現代にも通じています。
やはりそこに込められた人間の業が魅力を放つのでしょうか。


世間が嫌いなくせに、人間を求めずにはいられない。
番組の最後で、渋谷の雑踏に重ねられた句が印象的でした。
「わかれてきた道がまっすぐ」



福島泰樹短歌絶叫福島泰樹短歌絶叫
西村 多美子 福島 泰樹


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遥かなる友へ[DVD]?福島泰樹短歌絶叫コンサート総集編
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「ウェブ人間論」を読んでみた。

ウェブ人間論ウェブ人間論
梅田 望夫 平野 啓一郎


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さっそく読んでみました「ウェブ人間論」
先に「新潮」で行われた対談の完全版といった内容です。
「新潮」という文芸誌の記事として読む限りは、梅田望夫×平野啓一郎という組み合わせにあまり奇異を感じないと思います。
しかし、こうして一般層向けの新書として改めて見ると、多くの人は、なんで相手が平野氏なの?という疑問を抱くかもしれません。
村上龍とかならわかるけどという感じでしょうか。
平野氏とネットということが結びつかない人が多いと思います。
「顔のない裸体たち」や「滴り落ちる時計たちの波紋」といった作品を知っている人だと、彼が実は適役であることも理解できるんですが。
そもそも文学者とウェブって、本当は一番近い関係にあるはずなのに、そのへん自覚している作家は少数ですからね。
逆に、ネット音痴みたいなことを標榜したほうが、古きを愛する作家としてステイタスが保持できると思ってるような人が多いですし。


しかし、本書の中でも触れられていますが、世代論的に言っても、相手は平野氏でなくてはならなかったのです。1975年生まれの平野氏という意味で。
1975年という年が、ものの考え方の分水嶺にあると梅田氏は言います。
特にネットに対する考え方と行動原理が、他の世代とは決定的に違うということです。ミクシィの笠原社長、はてな近藤社長も75年生まれです。
こういう問題を世代論で切るというのは、血液型占いくらい乱暴な話であると思いますが(サンプル数が少なすぎるし)、
話としては最高に印象深いものです。こういう切り口を持ち出せるところが売れる秘密なのではないでしょうか。
来週以降、知ったかぶりのお父っつぁんが若い部下とかに「おまえ、何年生まれ?74年?惜しい、あと一年遅く生まれてれば、ネット長者だったのに」なんて言ってる光景が目に浮かびます。


内容の多くは「新潮」対談の延長なので、個人的には新鮮さはなかったのですが、ひとつ気にかかることはありました。
それは、平野氏が全く現在の日本文学について言及していないことです。
梅田氏がグーグルやミクシィなど自分のフィールドの同業他者(?)を様々引き合いに出している一方、平野氏の口からは、現代文学の具体的なものは出てきません。
テーマがネットとの付き合い方であるので仕方がないとも思いますが、文学というフィールドの現状も周りを見回して少し語ってほしかったですね。
こういうベストセラーの可能性がある本で、今こういう作品と作家が、僕を含めてこれだけいますよとアピールしてくれれば、現代文学全体にとってどれほどメリットがあったことか。
そう思うとちょっと残念です。
まあ自分の作品以外読まないという作家も多いですし、他人の作品なんか知ったこっちゃない、そんな紹介は作家ではなくて評論家の仕事だと言われてしまいそうですが。
本書ではもっぱら、本という媒体のかたちの行方(ダウンロードか紙かということ。まあそんな話、所詮、電気が常に通じる先進国だけの話ですね)ばかりに話が行っていますが、
やっぱり書かれている内容の変化も気にかかるところです。
この議論はどこかゲーム市場の話に似ています。ハードの議論に終始して、肝心のソフトについては考えていなかったというような。(PS3のようです)
いくら読むのに不便な本でも、自分が絶対読みたいと思う内容だったら、重くて腕が折れそうでも読みますし。
今回の議論がそういう話ではないこともわかっていますが、少しハード主義に偏っているというか、あまり便利なことばかり考えるのもどうかと思いました。
例えば、ほぼ日で作ったよしもとばななの「ベリーショーツ」という本制作にまつわる話など読むと、便利さよりも素敵なことがあると思ったりします。
「ベリーショーツのこぼれ話」


ちなみに日本の現代文学がネットと切れているわけでは決してありません。
作品の中で、ことさらそれをわかりやすいかたちで出そうとしていないだけです。
作家は、常に言語化できないものを掬おうとするものです。
ネットで感じたことをストレートにネットを題材にして書けば、わかりやすくて売れるかもしれませんが、それはたちまち風化します。
作家はよく炭坑のカナリヤに喩えられますが、社会の中の微妙な違和感や畏れを誰より早く察知して、
それを感じ取れない同時代の人には時に馬鹿呼ばわりされるリスクを持った存在だと思うのです。


綿矢りさの新作「夢を与える」の主人公のアイドルは、最後、自分のハメ撮りビデオがネットに流出して人気を失います。
YouTube的なものに敏感に反応した結果であるとも言えますが、評論家連中からは、通俗的、失敗作というレッテルを早々貼られてしまいました。
しかし、私はこの作品に通俗という冒険を犯してでも言語化したかった何かが作者にはあったのだと思っています。
(これについては、こちらに詳しく書きました。)
また、最近の笙野頼子の作品は、ネット言語に寄り添うような雰囲気があります。
彼女の作品の凄いところは、ネット言語を日本の伝統的エクリチュールであるかの如く、自然で自在に使っていることです。
彼女の伝えたいことを言霊的に相手に投げつけるには、ネット言語を使うのが最も自然で適切な選択なのでしょう。


他にも中原昌也の再近作にシンクロしたという筒井康隆の作品も来月に登場します。(これも「新潮」ですね)
筒井氏は「朝のガスパール」というネット文学の金字塔ともいえる作品を既に90年代初頭に発表していますが
(ここで既に「ウェブ人間論」で論じられているようなネット言論についての考察と実践が描かれています)、
今回掲載される「ダンシング・ヴァニティ」は、ネットについての彼なりの答えが書かれているものと期待します。
ちなみに、その作品の発表に先駆けて、「新潮」今月号に「小説と共時性」というエッセイが掲載されていますが、
曰く、今回の作品は「インターネット時代の新しい人間精神を小説的言語がいかに描きうるかを試みたもの」とのことです。


すらすらと読んでしまった「ウェブ人間論」、読みやすくて物足りないくらいですが、
実際ネットを体験したことのない人にとっては恐怖と焦燥を生み出す書かもしれません。
そういう世代からの見えない反発と憤懣が増える結果となるのも嫌なことです。
これは私が日常的に会社という組織の中にいて感じることです。
普段ネットに物わかりの良いふりをしていても内心忸怩たる思いを抱えていて、
少しでも失敗や問題が起きると、それ見たことかと叩きにかかる上司は結構多いのです。


ライアル・ワトソンの「ダーク・ネイチャー」という本にレミング集団自殺の発生プロセスが書かれています。
あるきっかけでレミングの集団密度が高くなり、それが頂点に達すると死への行進が始まるわけですが、
興味深いのは、その行進に参加する個体の多くが若年層であることです。
彼らはその密度が高くなるにつれ、なぜか幼体化し、攻撃的な老年層から反発を食い、追い出されるというプロセスを辿ります。
なんだかこれからの日本の姿を暗示しているようで空恐ろしい気分です。
オタクとネットというものを同一視して毛嫌いするる中高年は結構多いですからね・・・。
そういう層とも融和できるようなネット本が出ることが望ましいですが、現実にはなかなか難しいことでしょうね。
この本がそういう一助になればと願うばかりです。


新潮 2007年 01月号 [雑誌]新潮 2007年 01月号 [雑誌]


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ダーク・ネイチャー?悪の博物誌
4480860606ライアル ワトソン Lyall Watson 旦 敬介

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star迫れ、「悪」の秘密
starホモサピエンスが生き残るために

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100年目の坊ちゃん。

坊っちゃん坊っちゃん
夏目漱石


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今年は夏目漱石「坊ちゃん」が発表されて100年。
丸谷才一が新聞や雑誌に「坊ちゃん」について寄稿しています。
特に今月発売の「群像」1月号のエッセイは、ある新説が述べられていて興味深いです。
その新説とは、下女の清(きよ)は坊っちゃんの実母ではないかというものです。
言われてみればその通り、いろいろ話の辻褄が合います。
いくら坊っちゃんの気質が気に入ったとはいえ、清の坊っちゃんへの敬愛ぶりは過剰です。
一度でもこの作品を読んだことがある人なら、清と坊っちゃんの絆の深さがわかるはずです。
私も「坊っちゃん」というと、真っ先に思い出すのは、清のことです。
清が欲しがった越後の笹飴を一度食べてみたいとずっと思っていました。


漱石は幼い頃に養子に出され、母との関係は複雑なものがありました。
こうした漱石の幼児体験と照らし合わせると、清実母説はますます現実味を帯びてきます。
今まで何度も読んできたのに、全然それに思い至らなかったのは不思議です。
これは丸谷先生も同じことを述べています。
100年間、誰もこのことに気が付かなかったのです。
なぜなんでしょうね。
最も伝えたいことは、しばしばそれらしくないかたちをして、物語に現れるからでしょうか。


丸谷先生の説の詳しいところは「群像」を読んでもらうとして、
坊っちゃん」という小説は、再読すればするだけ、新しい発見があります。
少し前に、小林信彦が、うらなりこと古賀の視点から「坊っちゃん」を読み直した「うらなり」という作品を発表していました。
これがまた良く出来た小説で、坊っちゃんという人物像がぐるりとひっくり返ります。
うらなりは赤シャツとマドンナを取り合ったため、宮崎の延岡に左遷させられてしまう哀しい運命の教師です。
坊っちゃんもあんまりこのうらなりを評価していないようで、どっちでもいいような扱いです。(そのくせ下宿の斡旋をしろとか都合良く利用していますが)
脇役ですからそれも仕方がないのですが、脇役のほうが物事がよく見えているものです。
主人公坊っちゃんがいかに、うらなりにとって迷惑なものだったか、うらなりの美学を脅かす存在だったかがよくわかります。
粋な江戸っ子坊っちゃんと野暮な田舎者との闘いとして「坊っちゃん」は解読されがちですが、
そこには西洋近代主義と義理人情江戸主義という同時代的問題も潜んでいます。
合理主義と戦う時代遅れの痩せ我慢さが坊ちゃんの魅力でもあるわけですが、うらなりから見れば、それは奇妙で不可解なものなのです。


ちなみに、「坊っちゃん」は青年が都会から田舎に行く話ですが、「三四郎」は逆に田舎から都会に青年が行く話です。
三四郎にも実は一度読んだだけではわからない隠された主題というものがあるのですが、この二人の若者を並べて考えると
時代が変わっていく中、粋にふるまうことがどういう価値を持つのかが、おぼろげに浮かんでくる気がします。
偉い地位にいるくせに野暮でセコい人が多い現代、これらをもう一度読まなければいけないのは、若者ではなくて、偉いところにある人なのかもしれませんね。


うらなり
4163249508小林信彦

文藝春秋 2006-06
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おすすめ平均star
star思わず引き込まれて、一気に読んでしまった
star静かに生きたひと
starこれは面白い本です。

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ゆるゆるメディア、ラジオの時間。

ラジオ体操のすべてラジオ体操のすべて
丹生健夫 日東管絃楽団 体操


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ブログが定着して思うのは、ずいぶんと相互監視がきつくなったなあということです。
少しでも暴論めいたことを書くと、すぐさまその箇所がリンクされ、瞬く間に炎上となります。
特に書いた人が、有名人だったりするとなおさらです。
まあ暴論めいたことを書くほうがそもそも悪いわけですが、それにしてもこのチェック監視的風潮には何か息苦しさを感じます。


ネットがまだマイナーなメディアであった頃は、もう少しのびのびとした雰囲気があったように思います。
邪悪なオーラがぷんぷんとしているサイトを見ても、義憤を感じるというよりは、
おおこんな変わったものがあるというカルト的興味をもって接していたように思います。
今では考えられませんが、それだけネットというメディアが成熟し、影響力を持つものとして認知されたということでしょう。


相互監視がきつくなった背景には、書いたことが簡単に記録されるということにあると思います。
ブログで書いたことを消しても、キャッシュで残ります。テレビで喋ったことも、誰かの手によってすぐにYouTubeにアップされます。
こうしたメディアで一度発言したら、それはどこかで記録されていると思ったほうがいいでしょう。


フーコーは、事物がストックされカタログ化されることが即ち権力だと言いました。
とはいえ私を含めて記録分類批評するという行為は誰もがやることで、もうこれはどうしようもないことではあります。
そもそもこうしてフーコーについて言及すること自体が、フーコーをその権力下に置くことに他ならないというジレンマもあるわけですが。
しかし、記録が残ってストックされるということに伴う妙な息苦しさは、確かにそんなことと関係しているのかもしれません。


けれど、ラジオってまだ案外、この記録包囲網の外にあるような気がします。
もちろんポッドキャストという手段が現れて、前よりは手軽に記録できるわけですが、それもまだまだほんの一部です。
ラジオでの大半のお喋りは、刹那的に消費され、繰り返し聴かれることを前提としていません。
その証拠に、懐かしテレビのDVDはあっても、懐かしラジオ番組のCDとかは聞いたことがありません。
喋っているほうも、それを知ってか、テレビに出ている時よりずっとゆるく喋っているようです。
誰もそんなに聴いていないし、記録もされていないからいいやという気軽さがあるからでしょう。


考えてみると、ラジカセが全盛の時代の昔のほうが、今よりラジオは記録されていたように思います。
私もせっせとオールナイトニッポンとかをテープにダビングしていたものです。
今もリアルタイムで番組を聴くことが難しいので、トークマスターという機器を使って録音していますが、
いちいちPCにコピーする手間が少し面倒ではあります。


毎週聴いているラジオはかなりあります。落語系に偏っていますが・・・。
春風亭昇太オールナイトニッポン」「談志の遺言2006」「高田文夫ラジオビバリー昼ズ
志の輔ラジオ土曜がいい」「唐沢俊一のポケット」「こども電話相談室」「話の泉」等々。
どれも繰り返し聴くというわけではないのですが、ラジオの声が流れているという環境は結構よいものです。
特に話者が噺家さんだと言葉のリズムが心地よいですね。落語家はテレビよりラジオに向いているという当たり前のことが改めて実感できます。
それから、テレビを見ていてコメンテーターの発言に不快になることはあっても、ラジオではあまりそういうことはないですね。
結構、暴論めいたことを言う人もいますが、まあそういう見方もあるわなという感じに思えるのです。
これも皆、マイナーメディア故のゆるさと自由さが醸し出すものなのでしょうか。
ラジオもデジタルラジオになって、今より記録が手軽になると、また雰囲気が変わってゆくと思われます。
便利になると失うものもあると思うと、少し寂しい気がします。

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