舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日」覚書


ディスコ探偵水曜日〈上〉


待望の長編「ディスコ探偵水曜日」が刊行されました。
新潮に第1部が掲載されたのが2005年5月号なので、ざっと3年かかってます。
上下巻で原稿2000枚の大長編です。
上巻は連載分、下巻はまるっと書き下ろしとなっています。
しかしまさかこんな大長編になるとは予想だにしませんでした。
以下、書評での考えをまとめるための感想その他覚書です。




舞城王太郎は愛の小説家である。
今までの作品で一貫して語られてきたのは、愛である。
今回がその究極。
「好き嫌い」の感情を含めて、愛の本質について語り尽くしている。


よく「人はやっぱり外見より中身だよね」というが
そもそもその「中身」とは何なのか?
雰囲気?人格?魂?気持ち?
「中身」が重要ならば「外見」が変わっても
好きでいられるか?


子供の頃、自分の身体すなわちガワは交換可能だと思っていた。
ブロック塀とかに登り、このまま落ちて死ねばガワが壊れて中身が外れ、
新しいガワを持つ自分ができあがると本気で考えていた。
これは生まれ変わりの概念とはちょっと違っていた気がする。
もっと工学的なメソッドに近いものだった。
今回、これに近い設定が登場しているので、懐かしくも奇妙な気分。


人間の中身はひとつではない。
いろいろな「気持ち」が存在し、個々の人格を持って活動している。
中には厄介なものもいる。
それとの対決がひとつのテーマ。


人間の強い「気持ち」が世界を決めていく。
「気持ち」で時空も超えられるし、ねじ曲げられる。
しかし、世界を「編集」するのは難しい。


謎の相棒「水星C」は何者か?
主人公ディスコを、後ろから盛大に「まくり」、導く存在。
彼こそが人間を導く神(あるいは神からの伝令者)なのか。
旧約聖書の神のごとく、名前を呼ばれるのを嫌う。
常に暴力的で不可解。最終的に悪を飲み込み、主人公を救う。
人間に考えさせ、世界を作らせ、そして滅ぼさせる存在。
落語の「鉄拐」のよう。



マーキュリー(水星)にCが付いている一橋の校章


推理を誤った名探偵たちは、次々に死んでいく。
余計な文脈読みは死をもたらす。
推理によって、真実が逃げていく。
探偵を批評家に置き換えると、痛烈な文芸批評批判にも取れる。
(最終的には「すべてに意味がある」として、解決へのステップとなってはいるが)
宝探しだけに終始していても、「気持ち」は見えてこないというわけか。


最近の批評は、作品の魅力を伝えずに、
自分の知識の豊富さを誇るだけのような
宝探しゲーム的でうんざりする。


これは、最先端の文学理論を語るための材料としての作品ではない。
きちんとした感動をもたらす、読み物としての魅力を持った物語なのだ。
冷たい批評の言葉では、この作品の本質は語れない。
いっそのこと、批評ではなく
エモーショナルな感想文で書くしか突破口はないのかもしれない。
ぼんやり見る、ゆるく考えることが必要なのか。


複数世界、精神と身体の分離などのモチーフを扱う物語が
ここにきて偶然にも頻出している。
「キャラクターズ」「ファントム・クォンタム」東浩紀
宿屋めぐり町田康
「ダンシング・ヴァニティ」筒井康隆
あらゆる可能性を併記した世界観が求められているのかもしれない。


連載時と単行本で記載が違う部分がある。
登場人物の名前、年齢など。
単なる校正の結果とするより、これもひとつの可能性、
別世界と考えたくなる。


不能としての探偵ディスコ。
梢は子供、勺子とは肛門性交のみ、
分身である「黒い鳥の男」はペニスを持たない。


なぜディスコは、子供が好きなのか?


何かを好きになる理由とは?
「好き」「嫌い」に理由は無い。きっかけがあるだけだ。


ふっと現れる悪。
村上春樹的。
「嫌い」という強い気持ちが生み出す根拠レスな存在。
根拠レスだからこそ始末が悪い。


表紙絵は初音ミクの原画作者によるもの。
梢の様々な表情が現れている。
初音ミクという、無数の人格を創出できるキャラは
内容と照らし合わせると非常に示唆的。

キャラクターズ芥川賞候補作品篇



 ノックの音がした。
 ここは都心の瀟洒なマンションの一室。
 待ちかねたように住人のエヌ氏がドアを開ける。
 ドアの外に立っているのは、数人の男女。
 皆、どことなく影が薄い。
 それもそのはず、すべて彼らは小説の中の登場人物たちなのだ。
 エヌ氏に促され、ぞろぞろと部屋に入ってくる。


「チャイムがあるのに、なぜわざわざノックしなきゃいけないんだ」
 いきなり、来客の中の少し目つきの悪い男が言った。
「馬鹿ね。ここはエヌ氏のマンションよ。ノックしなきゃ始まらないよ」
 すかさず横にいた中国人らしき女が諭す。
 楊逸のワンちゃんだ。
 さすがしっかりしている。


星新一か。慊(あきたり)ねえ」と男が吐き捨てる。
 どうやらこの男、西村賢太が生み出した『小銭をかぞえる』の主人公の「わたし」のようだ。
 カツカレーをぶん投げられないように注意せねば。
 おっとそれは『どうで死ぬ身の一踊り』の時の「わたし」か。
 まあたぶん同一人物だろう。
 挨拶代わりに聞いてみた。
「例の「全集」のほうはいかがですか」
「「全集」じゃなくて「全集(旧字)」だ。それより池袋の三千円焼きソバを食わせろ。
 ぼくの旦那は結局最後まで焼きソバを食わせてくれなかったんだ」と男がわめく。


「焼きソバくらいええやん。わたしなんか最後、卵の投げ合いさせられてぐじゃぐじゃや」と関西弁の女が言う。
 川上未映子の『乳と卵』の夏っちゃんか。
 すると後ろに隠れるようにしている少女が姪の緑子というわけか。
芥川賞おめでとう、緑子ちゃん」
「・・・・・・・・・」
 返事がない。
 まさしく緑子のようだ。
「わたしよりこの子のほうが魅力的みたいやわ」夏っちゃんが緑子を見ながら、ぽつりと言う。
 芥川賞の選評で川上弘美が、緑子にもう一度会いたいと言っていたことが気になっているのだろう。


「私だって同じですよ」
 突然、老婆が話に割って入ってきた。
 田中慎弥の『切れた鎖』の主人公、梅代だ。
小川洋子さんは、私より母の梅子のほうが記憶に残ったみたいだし」
 梅代が口惜しそうにぶつぶつ言い出した。。
「梅子って、股がゆるゆるとか言う、あの婆さんか」
 と、西村、じゃなかった『小銭』の「わたし」が口を挟む。


「だいたい梅子とか梅代とか美佐子とか美佐絵とか誰が誰だかよくわからないですよね」
 言ったのは、OL風の若い女だ。
「あなた誰?」
「私は、津村記久子『カソウスキの行方』のイリエです」
「あんただって、イリエっていう字、結局どう書くのか最後までわかんないじゃない」
 梅代が喉を大きく膨らませて吠える。
 いまにも相手に掴みかかりそうな両者をまあまあとエヌ氏がなだめる。


 今日は喧嘩をさせるために彼女らを集めたのではない。
 日頃、作者の意のままに動かされ、赤裸々な私生活を晒されている主人公たちを少しでも慰めようとエヌ氏は思ったのだ。
 特に今日の面々は、この前の芥川賞候補になった作品の中の人たちなので、とりわけ心労が濃いようだ。
「しかし賞が絡むと、作品の中身より作者の境遇や容貌ばかりに世間は関心を向けますなあ」エヌ氏は憐れむように言った。
「誰々が褒めたとか、どこのテレビに出ただとか、作品外のネタで盛り上がるだけだし」
 と、うんざりした顔つきで、夏っちゃんが言ったその瞬間、


「それこそ現代の「コミュニケーション消費」の姿ですよ」
 トイレから東浩紀が突如顔を出し、すぐに消えた。
「なに、今の人?」
 とっさに卵を手にした夏ちゃんが言う。
「キャラクターとしてのあずまんですな」
 エヌ氏は落ち着いた口調で答えた。
「例の小説を書いてから、自由にキャラとして分裂できるようになったみたいです。魔法だって使えるみたいですよ。ほら」
 窓を開けると、空いっぱいに2ちゃんの哲学板のあずまんAAが広がっている。
(楽しく使ってね 仲良く使ってね)という文字がその横でひらひら漂っているが意味不明だ。
「これが出る頃には、あずまんスレも百に達して、あずまん本人がスレに降臨し、ますますキャラ化していることでしょう」
 エヌ氏は空を仰いで眩しそうに言った。


「ぼくも最近だんだんキャラ化してきたような気がするなあ」
 と『小銭』の「わたし」がつぶやく。
「しかし、ぼくも例の「全集(旧字)」を出しちまったら、お払い箱なのかな」


「「「大丈夫、当分、出さないから!」」」


 周りにいた数人が声を揃えて言った。
「な、なんだよ!その三重カッコは?」
 もはや西村か『小銭』の「わたし」か判別がつかなくなった男が叫ぶ。


「え、知らないの?今どきのラノベじゃあ常識だよ、はぅ〜」
 不敵な笑いを浮かべながら、『ひぐらしのなく頃に』の竜宮レナが現れた。
「『恋空』の美嘉ちゃんだって、使ってるよ、はぅ〜」
「その「はぅ〜」っていうのやめんか。気持ち悪い」
 梅代がいたたまれずに叫んだ。


「だって、「はぅ〜」がなければ、レナだってことがわかんないもん。
 こういう口癖を登場人物ごとに設定しとくと、会話文だけで押し通せるから便利だよ。
 梅代さんちも、そうやっとけば、誰が誰だかわからんなんて言われなくてすんだのに〜」
「にぱ〜☆」梅代が歯を剥き出して笑った。
「梅代、かぁいい〜、お持ち帰りぃ〜」


 ふと部屋の隅を見ると、若い男二人がしょんぼりと佇んでいる。
 存在感が薄くて、あまり見分けがつかないが、今どきの男の子感に溢れていることは確かだ。
「やっぱりカツラの桂さんじゃ、ベタ過ぎましたかね?ベタをあえて狙ったんですがね」
 と、山崎ナオコーラの『カツラ美容室別室』の佐藤淳之介が恥ずかしそうに言う。
「いつも気持ち悪いほどに何でも褒める佐々木敦の『絶対安全文芸時評』にまでキビシイこと言われましたからね。
 これではナオコーラでなくてただのナオコだって」


「あなたも、確か『絶対』で「鬼畜」とか言われてましたね」
 もう一人の男の子、中山智幸の『空に歌う』の和哉に向かって、エヌ氏は話しかけた。
「ええ。残念な兄、哲也の元カノをいきなり襲っちゃいましたしね。
 中山さんもずいぶん無茶なこと僕にさせますよ。勘弁してくださいよ、ホントに」
 と、和哉は言い、
「だいたい、種子島まで行ってロケットだって見てないんだから」と言い捨てた。


 この二人が再び、主人公として生きることはあるのだろうかとエヌ氏は思う。
 思えば、私はいろいろな作品で繰り返し主人公を務めてきた。
 個性がないことが個性だった。
 エヌ氏というのは記号に近い存在だ。
 記号はストーリーの邪魔をしてはならない。
 たまには流行の服を着たり、その時代のヒット曲も口ずさみたかったが、じっと耐えてきた。
 その苦労が作品の寿命を少しでも延ばしたなら嬉しい。
 そんな私から、今のキャラクター的小説世界を生きなければいけない、この部屋の彼らに言うべきことはあるのだろうか。


 ふと視線を感じて目をやると、そこに『乳と卵』の緑子が立っている。
「ほんまのことをゆうてや」
 緑子が口を開いた。


「ほんまのことをゆうてや。エヌ氏のエヌって、何?」
 エヌ氏はにっこり笑って言った。
「エヌ氏のエヌは、ノベルのエヌだよ」



文学の触覚展、開幕です。

群像 2008年 01月号 [雑誌]

群像 2008年 01月号 [雑誌]

ついにオープンしてしまいました。
純文学とメディアアートをコラボレーションした展覧会、「文学の触覚」展が昨日15日に開幕しました。
2年くらい前から動いていた企画だったので、今回の展覧会は感慨もひとしおです。
私の雑談のような企画をすくいあげてくれて、現実化してくださった学芸員の方のミラクルパワーにはホントに脱帽です。
いくら感謝しても感謝しきれません。ありがとうございます。


企画意図やら言いたいことは、会場の挨拶文に書いた通りです。
それをご覧いただければと思います、というところですが、それもナンですので、ここに再録します。

 テクノロジーの発達とともに、文学の領域は爆発的に拡大し続けている。
 テレビゲームから生まれた「サウンドノベル」、ビジュアルキャラクターと密接な関係を持ちアニメにも展開される「ライトノベル」、不特定多数の人々が物語の断片をネット上で語り継ぐ「新ジャンル」、そして今話題の「ケータイ小説」。
 これらを文学として扱うことに、違和感を覚える人々はまだまだ多い。確かに未熟な点も様々あるが、デバイスを含めたその表現形態は現代において圧倒的な有効性を持っている。もしも文学がこの先、新たな地平を切り拓くことを本当に欲するならば、表現形態を紙媒体だけに留めておくはずはない。
 テクノロジーと言葉が積極的に交差する中で、かつてないかたちで想像力が喚起されることであろう。時に蛮行と囁かれようとも、文学がより多くの読者と繋がるためには、その試行錯誤は不可欠である。
 今回、無謀とも言えるこの企画に参加し、怖れることなくテクノロジーと対峙していただいた作家の方々には深く深く感謝したい。そして言葉という最も扱いにくく厄介な代物と真っ正面から闘ったアーティストの方々の努力に改めて賞賛を送りたい。
 この展覧会は、様々な人々の、文学への過剰な愛によって成り立った稀有な結集点である。



今回の目玉は、なんといっても、かの覆面作家舞城王太郎さんの参加でしょう。
それも、この会場でしか読めない小説が日々、公開されるのです。
その作品は決して書籍にされることはなく、雪のように消えてしまうのです。
テーマは冬の恋愛。
言葉ひとつひとつが、雪のエフェクトとともに、舞い散り、消えてゆきます。
舞城ファンとしては、その場で次々に文章が消えていってしまうなんて、なんとももったいない気持ちになりますが、
この一期一会的なことの中にこそ、舞城さんの小説への考え方が示されているのだと思います。


会場には、舞城さんの自宅のキーボードと連動したキーボードが置かれ、
舞城さんが文章を綴る手さばきをそのまま見ることができます。
スクリーンには打ち出された文章が投影され、まさに舞城さんが文章を紡ぎ出すプロセスを体感することができるのです。
原稿用紙の時代は、推敲の後をそのまま読み取ることができましたが、ワープロになってからは、そうした創作の過程は
不可視となっています。
今回の試みは、その不可視の部分を、全く別の形で可視化した画期的なものだといえます。


今回の展覧会で、最も考えてみたいのは、物語の伝え方、表現の仕方です。
紙でページをめくる以外の読み方を模索することで、
今まで伝えきれなかった感覚や、逆にこぼれ落ちてしまう表現を見つけてみたいと思います。
巷ではケータイやネットによって、物語がどう変わるかと議論していますが、
優れた強度のある物語は、紙でもケータイでも媒体を選ばず、生き残っていくのではないでしょうか。


今回の展示作の元になったテキストは、「群像」新年号で読むことができます。
こちらを持って、会場を訪れるのが最適かと思います。


純文学方面から見ると、かなり無謀な企画なので、きっと賛否両論出るかと思いますが、
その状況こそが求めるべきものなのだとも思います。
これから2月までの会期中、どんな反応が出てくるかとても楽しみです。



ザ☆ネットスター!をつくってみた。

marudonguri2007-12-15





仕事というのは、集中する時はどうしてこう怒濤の如く集中するのでしょうか。
いくつも様々な仕事が重なって、7月あたりから全然休んでおりません・・・。
それもどれもが目新しい仕事ばかりなので、暗中模索の日々です。
ということで、珍しいことに、久々にちゃんとした番組みたいなものまでつくってしまいました。
その作った番組について、ホントのとこはどうなのだよという周囲の問いかけが多いので、
ちょこっとだけお話したいと思います。一種の説明責任みたいなもんでしょうか・・・。




きまぐれで出した提案があれよあれよという感じで通過し、すぐやれすぐ作れということになり、
いろいろ未消化のところも残しながら、放送ということになってしまいました。
その名も「ザ☆ネットスター!」。
ニコニコ動画にもアップされたりしたので、ご覧になった方もいるかと思いますが、
名前の通り、ネットの中のスター、凄い人やコンテンツを紹介する番組です。
前から似たような提案は出していたのですが、今までは全くスルーされていました。
今回すんなり通ったのは、どういう風の吹き回しなんでしょうか。
よくわかりませんが、テレビ側がネットのことをいよいよ無視できなくなってきた証拠かもしれません。


テレビ側に近い人間なのに、実際はテレビをほとんど見ずにネットだけで暮らしているような毎日なので、
今回の番組では、正直に自分が日頃、凄い!と思う人々やコンテンツを並べてみました。
放送後の感想などを見ると、ネット住民やオタクに媚びているといった言葉もありましたが、
そんな意識はなくて、むしろネット寄りになりすぎる自分を客観的に突き放すことが大変でした。


オープニングが美少女ゲーみたいということで話題になったようですが、
自分としてはキャラ絵を使うことで、バーチャルな人格とは何かを象徴したいと思っていました。
ミクを使ったのは、単純に予算の問題と、「あなたの歌姫」という曲に惚れたからです。
「あなたの歌姫」はホントに素晴らしい曲だと思います。
今回は超短期間で絵師の方も、曲の方も、アニメの方もフルスロットルで仕上げてくださって、本当に感謝しています。
アニメ番組でもないのに、キャラ絵をオープニングにするというのは、発覚(笑)してから
ずいぶんいろいろ言われましたが、最終的にはこういうのもアリかという雰囲気になり、心底ほっとしました。


スタジオがなにかに似ているとか、声優さん起用とか、BGMがとか、
自然と小ネタコード解読みたいな番組になっていきましたが、
結果それが、二次創作こそが最上の楽しみである現代のメディアというものを体現したようでもあります。


出演者と天の声の意識の違いという演出は、今までの予定調和なテレビ的進行に飽き飽きしていたことに起因します。
テレビ的に仕切る天の声と、台本も無く戸惑う出演者という構図を鮮明にして、テレビ的なものを炙り出そうとしたのですが、
やはりぶっつけ本番では、その意図がうまく伝わらないところがありました。
私がスタジオの空気を読んで、臨機応変に天の声のセリフをその場で書いていくという方式だったのですが、
思っていた以上にスタジオ進行が早くて、追いつけませんでした。
しかし予想外なところで、天の声が自主的に暴走してくださって(笑)、トータルでは満足のいく形となりました。
やはり柚姉は素晴らしい!


普段からテレビは、2ちゃんの実況板とともに見ていることが多いのですが、
今回くらい、ドキドキしながら放送を迎えたことはありません。
普通の試写とは比べものにならないほどのプレッシャーを感じました。
ワンシーンごとに下される批評や感想に身を削られる思いでした。
やっぱりある意味、無茶な番組だったのかもしれませんね・・・すみません。
でも今回の反応で、あるヒントとアイデアを得ました。
おおかたの予想に反して、好意的なメッセージが多かったので、
今回得たヒントはこれからの制作に生かすことができそうです。


テレビ的なコモディティに陥らずに、常に斜め上を目指してがんばりたいと思います。



今月の文芸誌(2007年7月号)

1000の小説とバックベアード1000の小説とバックベアード
佐藤 友哉


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今年も早いもので、号の上ではもう下半期に突入。
しかし考えると、文芸誌って、全く季節感無いですね。
「夏到来!ハワイ文学!」とか「避暑地で読むおすすめ純文学」とか
たまには季節感あってもいいと思うのですが(笑)。


さて、今月の目玉は、何と言っても、ユヤタンこと佐藤友哉三島賞受賞あれこれ、
そして、ゲーム的リアリズムをめぐる筒井康隆先生と東浩紀の対談でしょう。
三島賞の選評を読むと、予想通り、受賞作『1000の小説とバックベアード』に対する微妙なコトバが並んでいます。
中でも宮本輝の評「私には文字だけで書かれたドタバタコミックとしか思えなかった」は辛辣です。
他にも、「佐藤氏は貧しい」(福田和也)、「佐藤の文学あるいは文学史への向かい合い方は確かに稚拙である」(島田雅彦
といった手厳しい言葉が並びますが、しかし宮本氏以外は、それでも今回の作品になんらかの可能性を見ているようです。


こうした選評を待つまでもなく、この受賞作はいわゆるイタイ作品であります。
しかしそんなことは作者自身も自覚済みなんです。
イタイことは百も承知でも、書かずにはいられなかったんでしょう。
なんだか今どきの若い人の、怖いくらいのまっすぐさを感じます。
ちょうど今発売中の「SFマガジン」に、「セカイ系」的引きこもりから「決断主義」に移行する今どきのライノベについての評論が載っていますが、
まさに佐藤氏の作品と言動を見ていると、その「決断主義」が何たるかをかいま見る思いです。


「新潮」には、受賞記念のエッセイと高橋源一郎との対談が併せて載っていますが、こちらも相当イタイです。
このままいくと、イタイキャラが定着してしまって、業界的にそのキャラを利用・消費させられると、なんだか嫌ですね。
あくまでこのイタさは、通過点であってほしいと思います。
エッセイの中で、「師匠がほしかった」と述べていますが、これは今の文学において、結構本質的な問題なのではないでしょうか。
私は以前から、文学の世界にも、落語のような徒弟制度があっていいと考えています。
過去の小説を読まないで、ただひたすら書こうとするばかりの、今の若い作家にはやはり師匠が必要なのです。
対談で源一郎氏から公私にわたる様々な示唆を受けて、「そうだったのか!」と純真さ丸出しで、目から鱗状態になっている佐藤氏を見て、
いっそ弟子入りでもすればいいのにと思いました。
そうした雰囲気は、筒井先生に対する東氏の態度にも見られます。
この対談は、まるで老師と若き弟子の問答のようです。
筒井ファンとしては、なんだかジェラシーを感じるほどの、互いのリスペクトに満ちた羨ましい問答でした。


今月の小説では、久々の玄月さんが、なんと570枚の長編「眷族」(群像)を発表しています。
綿矢りさ「夢を与える」より70枚も長い大作で、読むのに骨が折れそうです。面白ければよいのですが。
あとは、伊藤整賞受賞第1作ということで「てれんぱれん」青来有一文學界)が注目です。
青来氏の最近の短編はどれも残酷なまでに人間の業を描く面白さがあって、今最も脂がのっている作家の一人ではないでしょうか。
もっと話題になっていい作家さんです。


その他、高齢デビューで話題を呼んだ桑井朋子氏が「すばる」と「文學界」と二作も発表しています。
中身に新しさはあまり感じられませんが、文芸誌の購読層として無視できない高齢者の読者には、共感を呼ぶ作品だと思います。
若者のイタイ叫びだけの作品ばかり読まされても、こういう層は困るだけですからね。


最後に余談ですが、防犯監視カメラの広告が「文學界」と「すばる」の2誌に載っています。
監視カメラ業界は純文学好きなのでしょうか?
それとも監視社会をキーワードにする東氏に対するわかりにくいオファーなのか(笑)。
ちなみに「すばる」に載っている広告は、他誌より異色です。
レンタカー屋、塩事業センター、救心、ネクタイ屋、ゴマ焼酎。
これらと文学の関係、マーケティング的に大いに興味がありますな。


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群像と文學界の新人賞発表。

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今月の文芸誌は、なんといっても新人賞受賞作に注目です。
いやーしかし今回の新人賞は文學界、群像ともに、ぶっとんでますよ。
まずは文學界新人賞円城塔オブ・ザ・ベースボール」。
これはもうSFそのものというか、ちょっと安部公房みたいな雰囲気もあるようなないような・・・。
一年に一度、空から人が降ってくる町の話です。
町にはそれに対するレスキュー部隊も組織されていますが、レスキューとは名ばかりで、
人が降ってきたらバットで打ち返すという乱暴さです。絶対、死ぬって。
作者は、前回の小松左京賞の最終選考候補になっていた人だそうです。
そっちのほうではもう単行本「Self-Reference ENGINE」が出ていて、一部では評判になっています。これからが楽しみな人ですな。


群像新人賞のほうは、SFどころか、もう訳が分からないトンデモ領域に達しています。
「アサッテの人」諏訪哲史
「ポンパ」「チリパッハ」とか意味不明なコトバをいろいろ叫ぶオジサンのことを回想していくという話ですが、一ミリも理解不能です(笑)。
でもなぜか読み進めることができるのは、語り手が糞真面目だからです。
天然のボケ的誠実さとでも言うんでしょうかね。
ここ笑うところですよね?ね?と思わず、作品の向こうの作者に仮想ツッコミ入れながら読んでしまいます。


優秀作の「だだだな町、ぐぐぐなおれ」広小路尚祈のほうは、「ポンパ」の衝撃のために全く普通に見えます。
選評でも言われてますが、町田康を彷彿とさせる作風です。題名からして、そういう雰囲気ですよね。
こういう語り口だと、主人公のバリエーションがパターン化してしまうのでしょうか。オレ語りだし。
どこか既視感のある主人公でした。


既視感といえば、文學界新人賞のもうひとつのほう、「舞い落ちる村谷崎由依は、川上弘美風です。
ずばり、選考委員の川上弘美本人から「わたしの小説と、ちょっと似ていません?」と言われています(笑)。
川上氏は最後まで受賞に反対したみたいですが、これってよく考えると、凄いことですよ。
本人から似ているというお墨付きをもらえたわけですから。
なかなか川上文学に似せようとしても難しいですよ。それだけこの作者のレベルが高いという証拠でしょう。
奇妙な村と東京を往還する女子大生が主人公で、村の生態がとにかく魅力的です。
私は川上風というよりは諸星大二郎を連想しました。もしかすると、一種の伝奇SFなのかもしれませんね。


新人賞の応募が今は二極化していて、10代のライノベ世代と還暦前後の団塊世代だそうです。
ライノベはともかくとして、団塊世代の自分の人生振り返り話は正直読みたくないですね。
団塊には団塊なりの狂気があると思うので、そのへんをむしろ狙ってほしいですね。
「ポンパ」に太刀打ちするには、それしかないような気がします。


その他、今月の文芸誌の注目作・記事を拾ってみますと、
「工学化する都市・生・文化」東浩紀仲俣暁生 対談(新潮)・・・「東京から考える」の延長線上の話が聞けて刺激的です。
「炎のバッツィー」加藤幸子(新潮)・・・昨年の群像11月号の「バッツィー」の続編。意地悪姑生物バッツィーふたたび!雪山に捨ててきたはずのバッツィーが帰還!手に汗握るバッツィーとの攻防戦!そんじょそこらのライノベよりスリリングですわ。
「心はあなたのもとに」村上龍文學界)・・・群像に続き文學界でも連載開始。群像が「半島から出よ」系とすると、こちらは「トパーズ」系ですな。例によって、コールガール(古いですか(汗))登場!いいなあこの乾いた背徳の雰囲気。待ってましたという感じです。
「煉獄ロック」星野智幸(すばる)・・・先月から始まった星野SFシリーズ(勝手に命名)。前作「無間道」の超どろどろ東京には、ぶっとびましたが(必読!)、今回も読ませてくれました。この人は実はSF作家の資質もあるのではと思わせる面白さです。
近未来の東京で繰り広げられる公開処刑と完全管理教育。
こういうの読んでから「らき☆すた」見ると、あー平和でいいなあと、ほっとしますよ。


ということで、いつもより数段スリリングな今月の文芸誌でした。


Self-Reference ENGINESelf-Reference ENGINE
円城 塔


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今月の文芸誌(07年5月号)

文藝 2007年 05月号 [雑誌]文藝 2007年 05月号 [雑誌]


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今月は「文藝」が出る月なので、一冊多いです。
その「文藝」は柳美里特集です。「新潮」で連載していた「山手線」シリーズがこちらに移ってきています。
新潮社とあまりうまくいっていないようなことも以前書いていましたが、
「新潮」編集長の矢野優氏が全身全霊を込めた暖かい応援コメントを「文藝」に寄せているので大丈夫でしょう。
しかしこれだけの最上級のコメントを投げかけられる作家がいるということは編集者として幸せなことですね。
もちろん投げかけられた作家も幸せですが。
こうした関係から良い作品が生まれることを期待してやみません。


今月もおもしろい作品がいくつかありますが、なんといっても注目は、
筒井御大の「ダンシング・ヴァニティ」の第2部の登場です。
さらにドライブ感に拍車がかかって、どこまでいくのかと空恐ろしくなります。
ここまでやっていいんだ!と、忘れていた小説の自由さを思い出させてくれます。
思わず「海」の頃の挑戦的短編群を思い出しました。
秘書の功刀さんが最高です。


誰に頼まれたわけでもないのに、せっせと日常のどうしようもなさを暴き続けている前田司郎がまたやってくれています。
「グレート生活アドベンチャー」(新潮)は、ドラクエRPGゲームを実存的に暴き、
そのまま僕らの日常というものを返す刀で斬っています。
これを読んでしまうと最後、RPGゲームを純粋なゲームとしてプレイできなくなるので注意が必要です(笑)。
いろいろ印象的な言葉が出て来て、一段と才能に磨きがかかっている感じがしました。


家族をモチーフにする作品というのは、毎月何かしらの形で登場しますが、今月はそうした作品がなぜか印象に残りました。
「龍の棲む家」玄侑宗久文學界)は、認知症になった父の介護をめぐる話です。
誰でも家族が認知症になれば戸惑うものですが、その状況に家族外から手をさしのべる者が現れます。
病気によって家族の記憶がぼろぼろと欠落していく者と、新しく家族として参加していく者。
その循環の中に宗教家としての目線がありました。
介護的なノウハウも豊富で、取材もきちんとしているという印象を受けました。


「海近しの眩しい陽射しが」川崎徹(群像)は、肉親と友人の死という二つの死を巡る話です。
川崎氏は従来の作家が狙わないような部分を、時に不条理という形を伴って、的確にスマッシュヒットしてくる才人ですが、
今回の作品はオーソドックスに死について考えているような感じがします。
川崎氏のことなので、最後まで何かあると思って読んでいたのですが、
そんなどんでん返しのようなこともなく、静かなかたちで終わりました。
死という最大の不条理の前には、どんな不条理な物語もかなわないということでしょうか。


最近、量産体制に入っているようにも感じる佐川光晴は「文學界」に、
建築家の元カノとの関係を描いた「一枚の絵」を発表しています。
主人公は画家で、元カノは建築家という設定にちょっと少女マンガ風味を感じますが、
画家の男が元カノにアプローチする仕方が、キモくて面白いです。
そのキモさを自分で自覚していないところが、さらにヨイです。
まあヨイといっても、微妙な良さですが。
語り手としての主人公が無自覚だと、読み手が自分で常識を開拓していかねばならないので大変です。
そういう作業では、時に自分の常識のあやふやさを自覚することもあり、ますますシュールなことになります。


湖水地方寺坂小迪文學界)も奇妙な家族話です。
不思議な姉妹が出て来て三角関係に悩む話、これもまた少女マンガ風です。
なにしろ相手の男の名前が煉ですからね。煉獄の煉です。ダンテかよって感じです。
今どきの純文学のライバルはもしかしたら少女マンガなのかもしれません。
純文学の編集者は一度少女マンガ雑誌を経験した人が適役だと真剣に思います。
少女マンガの想像力を超えたものが純文学には要求されているような気がします。


その他、電車の中で自分の尻を揉む男が出てくる(なんじゃそりゃ(笑)吉田戦車ですか?)木下古栗の「受粉」やら、
先輩の女と携帯でやりあった挙げ句、こっぴどい仕打ちをする男の話、恒川光太郎「風を放つ」など
頭がくらくらしそうな異色作もあって、今月も純文学から目が離せません。(ホントかいな)
(ちなみに恒川氏はあのミステリーの傑作「夜市」の人ですよ。こんな話も書くんですね。
「風を放つ」はアーヴィングの「熊を放つ」から?考え過ぎですか。)